この文脈において、だからこそ今日でさえ、多くのイスラエル人は、なぜ日本の若者が日本赤軍を結成してイスラエルまではるばる飛んで、会ったことのない罪のない人々を殺したのか、理解できないのです。私はイスラエルのメディアでこの件についてインタビューを受けたとき、日本赤軍は1960年代の安保に対するイデオロギー的デモと、そこから発展した1970年代の学生運動の過激なデモとしてのグローバルな文脈の両方で理解されるべきであると述べました。1970年代は、世界中の学生が抑圧と見なすものに反抗し、街頭に繰り出してデモをした時代でした。これらのグループの一部がさらに過激になり、暴力的手段に転じてテロ組織になったのでしょう。
日本赤軍の場合、世界中の自分たちと共通するイデオロギーに動機づけられた仲間のテロ組織と協力しました。そこにはパレスチナのテロ組織PFLP(パレスチナ解放人民戦線)も含まれていました。日本赤軍のメンバーが訓練を受け、またその一部がまだ住んでいるレバノンは、当時(そして部分的には現在も)世界中のテロリストが集まる「都」といえます。
空港でテロ攻撃を行った3人のうち、奥平は警察に殺され、安田は自殺し、岡本だけが生き残り、逮捕されました。エルサレム・ヘブライ大学の名誉教授(日本研究)で、空港乱射事件後にイスラエル警察から通訳を依頼されたエフド・ハラリ教授によると、岡本自身も計画では自殺する予定でしたが、その前に逮捕されたそうです。 岡本はイスラエルで裁判にかけられ、終身刑を宣告されましたが、捕虜交換の一環として13年後にイスラエルの刑務所から釈放され、現在はレバノンに住んでいます。逃亡してベイルートに住んでいる日産元会長のカルロス・ゴーンと同様、レバノン政府は岡本を裁判のために日本に引き渡すことを拒否して彼の亡命を認めています。
日本赤軍によるテルアビブ(ロッド)空港乱射虐殺事件のイスラエルにおける直接的な影響は、空港治安の強化でした。今日、有名なイスラエルの空港での厳重なセキュリティーチェックは、実際にはこの攻撃の結果なのです。第二の影響は、グローバルテロリズムです。日本赤軍とパレスチナのテロ組織とのつながりなど、目標は異なっても、社会を不安にし、国家に対抗するテロ行為を行う組織的つながりが初めて確認された出来事でした。それ以来、現代はますますこのテロ組織と遠隔の人々のつながりに注目が寄せられています。 幸いなことに、日本赤軍のテロリストが望んだような日本国家の転覆やイスラエルとの外交関係は悪化には至りませんでした。