自らのことを語らなかった藤井さん

 私は、自らの差別体験や藤井さんら当事者から聞いた話をまとめた著書『顔面漂流記』を1999年に発表した。

 同時に、自助グループ「ユニークフェイス」(2002年NPO法人化)を旗揚げした。そのときには岐阜の短期大学に赴任していた藤井さんに、名古屋支部のまとめ役をお願いした。しかし、運営の進め方で意見の違いが出てきて、藤井さんがNPOから離れていった。

 その後、藤井さんは当事者の呼称として「容貌障害」を提唱し、全国の学校を巡り自らの体験を語り出した。

 その活躍を遠くから見つめながら、「いつかまた、一緒に当事者支援活動ができたらよいな」と思っていた。だが、再会を果たせぬまま、20年の歳月が流れていた。

「何とかして連絡を取りたい」。そんな思いが強くなっていたときだった、彼の死を知ったのは。信じられず、会っておかなかったことを猛烈に後悔した。

 そして、私の中にある彼との思い出をたどるうちに、ふと思った。藤井さんはどういう人間だったのだろうか、と。私は彼と何度も会って話をしてきたが、彼の人物像を説明しにくい。いつも笑顔の人だった。一方で、自己主張は控えめで、私の前では自らのことは語らない人だった。

友に「笑顔で生きると決めたんだ」

 SNSを通し、生前の藤井さんとの交流のある人たちに取材協力を求めた。すると、藤井さんと30年以上のつきあいのある、山口秀樹さん(60)から連絡を頂いた。山口さんも、京都府立中丹支援学校副校長を務めるなどした教育者だ。

 山口さんが20代のころ、2人は松下政経塾で出会ったという。

 藤井さんは当時、「福祉入浴」の支援に取り組んでいた。福祉入浴とは、地域の銭湯を、高齢者のために無料で開放し、ボランティアが、その背中の汗を流す、という地域活動である。

 藤井さんに誘われ、山口さんも福祉入浴に参加した。ある日、藤井さんはさらっとした様子で、「僕の顔にアザがあるのを気にされる利用者の方もいるのですよ」と語ったという。

「その言葉に、彼の心の琴線に触れた気がしました」と山口さん。彼の怒りの感情にも触れたことがあるとという。

「いつもニコニコ笑っている。しかし、あるとき、藤井さんが『友人のYさんが、アザのことで僕のことをバカにしている』と怒ったことがあった。ああ、藤井さんも普通の人なんだと思いました。笑顔は、彼なりのカモフラージュだったのかもしれない。『笑顔で生きると決めたんだ』と僕に言ってくれたことがありました」

次のページ
子どもたちにコブを触ってもらう