自分の体を見るのが嫌でしょうがなかった。写真に撮られるのもすごく嫌だった
子どものころは自分の体を直視したくてもできなかったという。
「体が鏡に映ると、もうゾッと、鳥肌が立っちゃって。見るのが嫌でしょうがなかった。写真に撮られるのもすごく嫌だった」
そんな自分を心の中で切り離した。
「だんだん意識しなくなるというか。自分が存在していないというか」
周囲に対して自分のことを「他人のように話す」ようになった。「そういうくせなのか」と、言う。いつの間にか身についた振る舞いなのだろう。無意識のうちに発動した防衛反応、心を守るための鎧だと思った。
「ありのままの姿をさらけだして? そんなつもりはまったくない」
しかし、矛盾している。なぜ、そんな彼女が作品の中で自分の姿をあらわにしているのか。しかも、バッチリ決めたメイクと衣装で。「自分を意識しない」どころか、そこに感じるのは強い自己主張。自分愛。
ところが、それに対する答えが返ってきたとき、私は一瞬、言葉を失った。
「必要な要素として作品の中に登場してもらったんです。自分の体に。素材の1個だと思って、使った」
矛盾がすーっと消えるのを感じた。作品に写っていたのは「片山真理」という名のマネキンだった。
「ただ、演出のために必要だったから『自分に写ってもらった』という感じですね。よく、作品について『ありのままの姿をさらけだして』とか、書いてくださるんですけど、(そんなつもりはまったくないんだけどなあ)と」
幽体離脱したように「写真家・片山真理」は「マネキン・片山真理」に、こう話しかける。
「このオブジェだけを撮ろうとすると、何だかよくわからないから、君ちょっと、これを着て、ここに座ってよ。そうすると面白くなるから」
「写真を撮っているときって、そんな感じ。写真って、本当のことは写らないから」
さらに彼女はこう続け、その言葉の意味を実感した。
「写り込んだオブジェは作品に必要だと思って作っているだけで、本当はすごく嫌いなんです」
だから、ファンからそんなふわふわした「弱っちい」ものをプレゼントされるとすごく困るという(好きなのはその対極、「工場」のようなハードなものという)。
実は「つくってきた」のは、作品だけではない。「外に出るときは顔を使い分けるようにした」「つくりこんでプレゼンしたり」。演出した「ミステリアスな写真家・片山真理」のイメージ。