力を尽くすしかない。いつやめてもいいように
それとはまったく別に、資金面での問題もあった。紛争地の取材はとにかく費用がかかるのだ(移動手段や宿など、命の沙汰も金しだいの世界である)。
「お金のためにやっていたわけじゃないですけれど、それにしても生活はしんどかった。貧乏。居酒屋とかでアルバイトしながらちょっとずつお金を貯めて、年に1回とか2回、取材に行った。でも、飯が食えなかったから、いつやめよう、いつやめよう、と思っていました。まあ、もんもんとしていたわけです」
そう言うと、渋谷さんはため息をつき、小さく笑い、こう続けた。
「でも、あれが大事だったんです。いま思うと。撮ることがしんどかった時期に自分が熟成された。なぜ撮るのか、撮ってどうするのかという、ぼく自身の哲学みたいなものが深まった。いまでも悩みはありますけど、力を尽くすしかない。いつやめてもいいように、悔いがないようにやろうと思う。今回の写真展も最後の機会だと思ってやっています」
写す対象が「マス」から「個」にフォーカスされていった
先にも書いたが、写真を撮るという行為には暴力的な一面がつきまとう。人の居場所にずかずかと踏み込んでいって、カメラを向けて帰っていく。
「そんな、普通だったら受け入れられないようなことを自分はしてしまっている。それだけは自覚しておきたい。まあ、自分が幸せかというと、そうでもないですし、決して楽しいことではないんですけれど、やっぱり撮らせてくれた人に対して恥ずかしくない仕事をしなければならないな、と思っています」
私自身もそうなのだが、取材に行くと「おまえはここに何しに来た」という視線に突き刺されることがある。それを身構えるのではなく、「こちらは無防備ですから、思う存分にやってください」という境地になるまでにはずいぶん時間がかかった。渋谷さんもそんな相手のまなざしに刺され、何度も挫折しそうになった。
そして、自戒を込めてこう振り返る。「最初のころは雑な取材をしていたんです。人間が人間として扱われない、そういう人たちを撮ってきたのに、状況だけ伝えられればいいと思って、人の名前を聞かなかったり。そんな反省もあって、ちょっとずつ写真が変わっていった。距離感とか。写す対象がマスから個にフォーカスされていきましたね」。
個人の力ではいかんともしがたい巨大で残酷な運命に閉じ込められた人々
ちなみに、渋谷さんは自分自身をジャーナリストとは思っていないという。「ぼくは個人的な動機とか、心のおもむくままにやってきた結果、ここにいる。情報を伝えるために写真を撮っているつもりはない。だから、わからなさや余白みたいなものがあって、見る人の想像を喚起するモノクロ写真が好きなんです」。
渋谷さんは長年、見えないものを撮ることに挑み続けてきた。それには写真を撮る側の力だけでなく、見る側の想像する力を借りなければならない。それによって見えないものが見えたりする。それが写真の面白さであり、力である。
今回の写真展のテーマは、「ボーダー(境界線)」。そして、「隔離のなかの生」。境界線のなかにはイスラエルのパレスチナ自治区を隔てる「分離壁」のような強固なものもあるが、ほとんどは目に見えない。その目に見えない壁が人々を取り囲んでいる。
その内側には自由がない。移動の自由、働く自由、ものを買う自由など、さまざまな自由が奪われている。いわば、目に見えない檻の中に閉じ込められた人たち。彼らは個人の力ではいかんともしがたい巨大で残酷な運命の中に閉じ込められている。