「雨音はショパンの調べ」の大ヒットから36年。いまはむしろ陽だまりが似合う(撮影/織田桂子)
「雨音はショパンの調べ」の大ヒットから36年。いまはむしろ陽だまりが似合う(撮影/織田桂子)
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サバサバとして気さく、時に男気のようなものさえ感じさせる。いい時代の東京人である小林の古層に、門前仲町生まれの江戸っ子だった父の気風が息づいている。カラオケの十八番はテレサ・テン(撮影/織田桂子)
サバサバとして気さく、時に男気のようなものさえ感じさせる。いい時代の東京人である小林の古層に、門前仲町生まれの江戸っ子だった父の気風が息づいている。カラオケの十八番はテレサ・テン(撮影/織田桂子)
子どもの頃から大の読書家。沢木耕太郎の対談集を読む。85年刊のフォトエッセイ集『私生活-PRIVE』には小林が撮影した沢木の取材中の写真が収録されている。沢木の『敗れざる者たち』は大好きな一冊(撮影/織田桂子)
子どもの頃から大の読書家。沢木耕太郎の対談集を読む。85年刊のフォトエッセイ集『私生活-PRIVE』には小林が撮影した沢木の取材中の写真が収録されている。沢木の『敗れざる者たち』は大好きな一冊(撮影/織田桂子)
子どもの頃、炊き出しをする女性のドキュメンタリーをテレビで見て、感銘を受けた。ボランティア的な活動には折に触れて参加している(撮影/織田桂子)
子どもの頃、炊き出しをする女性のドキュメンタリーをテレビで見て、感銘を受けた。ボランティア的な活動には折に触れて参加している(撮影/織田桂子)

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 パルコの広告では淫靡と退廃をふりまき、「雨音はショパンの調べ」で時代のミューズになりながら、ある日きっぱりと姿を消した。そして四半世紀。女性誌の表紙で穏やかな微笑みを湛えて復活すると、いま、長い子育ての時間にも枯れなかったファッションへの思いを携えて歩き始めている。
 
 自然光が降り注ぐ東京湾に面したスタジオで、小林麻美(こばやし・あさみ)(66)は25年ぶりにカメラの前に立った。スタッフは自分よりずいぶん若かったし、カメラはデジタルになっていたが、スタジオの雰囲気も、連続するシャッター音も、昔のままだった。

 1970年代からモデル、歌手、俳優として活躍し、80年代には時代のミューズとして一時代を築いた小林が、突然の引退から四半世紀ぶりにマガジンハウスの雑誌「ku:nel」の表紙で復活したのは2016年7月。小林は代名詞ともいえるイヴ・サンローランの黒のスモーキングジャケットとタキシードパンツを纏い、穏やかに微笑んでいた。

「この時一番感じたのは、ああ、私はこの仕事が好きなんだということ。スタッフが集まりページを作り上げていく、クリエイティブな場に参加することが好きだったんだということを確認しました。サンローランの服は上品と下品が紙一重で、きわどくて魅力的。引退した後も、これが着られる自分でいたいと思っていました」

 発売日まで極秘にされた小林の「ku:nel」での復活は大きな話題となり、かつての小林を知る世代には東京が輝いていた時代の記憶を想起させ、初めて小林を知る世代には大人世代のリアルな女性として新鮮に受けとめられた。

 今年3月に刊行された小林の評伝『小林麻美 第二幕』の著者、延江浩(のぶえ・ひろし 62)は小林の復活についてこう語る。
「四半世紀はすごく長い。彼女はその時間で、自分の生き方を調整していった。表舞台から姿を消して普通の人に戻るが、復帰の時はまた違った形で蘇った。それができたのは、彼女に『普通の感覚』があったから。東京に生まれ育って、ちゃんと生活してきたことこそが、枯れなかった理由なんじゃないか。彼女の人生は怒濤だったから、25年間という休息は必要だったかもしれない。自分に滋養を与えていた25年だった気がする」
 

 ■才能のある人に会う運、女子大生の憧れの的に

 小林は1953年、技術者で会社経営の父・禎二(ていじ)と美容師の母・澄子(すみこ)のもと、東京・大森に生まれた。神奈川県に近い東京南部の海沿いの街で、当時は第一京浜国道あたりまでが海だった。京浜東北線を挟んで山側の閑静な住宅街にはかつて作家や芸術家が多く住み、海側には町工場が点在する。そんな街で何不自由なく過ごした幼少期だったが、大好きだった7歳年上の姉が小林が小学校高学年の時に結婚して家を出ると、父は経営する工場がある大宮に行きっぱなし、母は美容院経営が忙しく、一人の時間が長くなった。読書、そして映画館通いが孤独な少女の心を慰めた。

 内向的、そして少し反抗的な長身の美少女は、中3の冬、ひとりで日比谷みゆき座にロマン・ポランスキー監督の「ローズマリーの赤ちゃん」を観に行った時にスカウトの目にとまる。72年にアイドル歌手としてデビュー。しかしヒット曲には恵まれなかった。

 世間に小林を印象付けたのは、76年のパルコの広告だった。アートディレクターの故・石岡瑛子がモデルとしてファッション雑誌に出ていた小林を抜擢した。三宅一生(みやけ・いっせい)の目が覚めるような真っ赤なイブニングドレスで、駿河湾を望む沼津港のクルーズ客船でタキシードの初老の男性と踊った。

「私は才能の集まる場所に足を踏み入れたんです。超一流と仕事をするということは、『魔術』にかかることだと知りました」(小林)

 小林のスタイリングを長く手がけたスタイリストの宋明美はこう語る。

「それまでのアイドルとしての自分から、あれで彼女は解放されたんだと思う。おでこを出すのが嫌だったようですが、いいスタッフに出会い身を任せ、自分を変えた。そして時代とリンクした」

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