その翌年の資生堂「マイピュアレディ」の広告は数十億円が投入されたといわれ、長期のアメリカロケが行われた。ショートカットが印象的なビジュアルだが、髪は切らずにウィッグで撮影した。淫靡で退廃的な雰囲気のパルコの広告とは一転、小林の少女のような眩しい眼差しは視聴者を魅了し、ポスターは盗難が相次いだ。

 宋はこれ以降の小林のスタイリングのほとんどを担当することになり、香港、パリ、ハワイ、ロサンゼルスと、海外ロケにも同行した。撮影が終わると、ショッピング。仕事と遊びが混然一体となって、その熱がクリエイティブに直結した。

「私は才能のある人に会う運がある」と小林は言うが、宋は「運もあるけれど、運と一緒に生き切るという彼女の強さもあるのではないか」と語る。

 小林は「ユーミンと初めて出会ったのはいつだったか、覚えていない」と言う。松任谷由実(66)と小林は同学年。一方は八王子、一方は大森と東京の郊外で育ち、ともにミッションスクールに通い、米軍基地でカウンターカルチャーに触れる早熟な少女だったという共通点を持つ二人は、何とはなしに気が合い、打算なく付き合えた。

 二人は女性誌の対談などに揃って登場した。「JJ」84年7月号の対談では、アンティックな木のエレベーターから腕を組んで降りてくる二人の写真が扉を飾り、リードには「“女子大生の憧れのマト”の双璧となる2人」と紹介されている。作家の林真理子(66)は、松任谷がプロデュースした小林のアルバム「GREY」のライナーノーツでこう書いている。
「そもそもユーミンと小林麻美さんというのは、絵に描いたような二人ということになっている。当代きってのいい女たちで、その生き方やファッションはそのまま若い女の子たちの憧れの的だ」

 
 ■田邊昭知という運命、怒濤の子育ての日々

 そんな二人が「東京タワーの真下にあるスタジオで、二人でクスクス笑いながらレコーディングした曲」(小林)が「雨音はショパンの調べ」だ。84年、松任谷の日本語詞とプロデュースでリリースされ、オリコン週間ランキングで3週連続1位を獲得。ウィスパリング・ボイスで「気休めは麻薬」とメランコリックに囁き、小林の「アンニュイな大人の女性」というイメージを決定づけた。歌謡曲からJ-POPに移行する前夜の日本の音楽シーンを、鮮烈に彩る一曲になった。

 小林が時代の先端で輝いていた時期、もうひとつの「運命」も深く静かに進行していた。小林と、元所属事務所の社長であり夫である田邊昭知(81)との関係だ。20歳の春に田辺エージェンシーと契約し、その秋から交際が始まった。田邊は独身だったが、事務所の社長と所属タレントとの恋愛であり、関係は極秘とされていた。それは91年1月、37歳で出産し、3月に結婚・引退するまで続いた。小林が引退した91年3月は、ちょうどバブル崩壊が始まった月。華やかな東京のクリエイティブの最前線を彩っていた小林は、バブル崩壊の足音とともに、きっぱりと姿を消した。

 15歳年上の田邊はずっと独身を貫いており、結婚は望めないと思っていた。一人で育てるのでもいいから、子どもだけはどうしても産みたい。それほどの覚悟だった。きっぱりと引退したのは、周りに迷惑をかけながらも自分の生き様を通したことに対する「ある種の禊(みそぎ)」だったと、小林は評伝で語っている。

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