大企業病に苦しむパナソニックを再び強くする役割。光栄だと思ったが、簡単な話ではない。津賀は「思う存分考えてください」と言った。

 日本コカ・コーラ会長を務めるなど同じ外資系企業のトップとして親しく付き合い、日本企業に一足先に転じていた資生堂社長の魚谷(うおたに)雅彦(65)は、樋口の気持ちがよくわかると語った。

「僕が資生堂に行くことになったとき、すぐに応援のメールをくれたのが、樋口さんでした。日本の会社から欧米企業で経験を積み、どこかで日本企業が世界に挑戦するのを応援したい気持ちを持っていましたが、僕も決断は簡単ではなかった。ましてや樋口さんの場合は古巣。僕が資生堂に来る以上に、勇気と覚悟が必要だったと思います」

 4カ月後、樋口は津賀に入社を伝える。報酬や待遇については、何ら条件を求めなかった。津賀からは、タブーはない、思ったように変革を、と言われた。樋口は一気に改革にアクセルを踏む。

「34歳で会社を辞めるときにも悩みました。苦しくて苦しくて、同僚や上司と何度、飲みに行ったことか。みんな本当にいい人たちでした。いい会社だった。お世話になりました。その恩をお返しできる絶好のチャンスをもらったんです」

 CNS社は9・3%、8・4%と2年連続で全社基準を上回る営業利益率を達成した。樋口は今、創業者の松下幸之助のことをよく考えるという。

「もし、松下幸之助が豊かな現代に生まれていたら、どうしていたかなぁ、と。当時とは、まったく違う使命を考えたと思うんです」

 険しい挑戦へと常に樋口を突き動かしてきたのは、もっともっとやれるはずだ、という情熱と強烈な信念だった。キャリアの集大成となる挑戦は、今も続く。

(文中敬称略)
    
■ひぐち・やすゆき
1957年 兵庫県生まれ。
 76年 大阪大学工学部電子工学科入学。卒業後は大学院に進みたい気持ちも持っていたが、早く働きたかったこと、また経済的な理由から断念した。
 80年 松下電器産業(現パナソニック)入社。溶接機事業部に配属。6年目にIBMのパソコンのOEMを手がける部門に異動。これがコンピューターとの最初の出会いになる。
 91年 ハーバードビジネススクール修了。経営学修士(MBA)。
 92年 ボストン コンサルティング グループ入社。
 94年 アップルコンピュータ入社。マーケティングマネージャーと営業を経験。スティーブ・ジョブズが戻ってくる前のアップル。業績が厳しい時代だった。
 97年 コンパックコンピュータ入社。実は別の外資系ソフトウェア会社の日本法人社長に内定していたが、アメリカでの本社CEOとの面談で撤回。「人格的にあまりにひどくて許せなかった」。偶然、コンパックの採用に携わることになり、日本法人に入社。マーケティング担当役員。
2002年 合併に伴い、日本ヒューレット・パッカード(HP)役員。翌年、日本HP社長。
 05年 産業再生機構に請われ、ダイエー代表取締役社長。「新鮮野菜宣言プロジェクト」などの部門横断型の直轄プロジェクトで成果を上げる。約260人の店長に積極的に電話をかけた。「人の心を動かすのは戦略や論理じゃないんです。一緒に歩んでくれると実感できるリーダーの心こそが人を動かすんです」
      著書『「愚直」論』刊行。
 06年 産業再生機構がダイエー株式を売却。経営の主導権が丸紅を中心とした経営チームに移ったことで社長を退任。顧問に。
 07年 マイクロソフト代表執行役兼COO。翌年、代表執行役社長。著書『変人力』刊行。
 11年 日本マイクロソフトに社名変更。
 15年 日本マイクロソフト代表執行役会長。
 16年 著書『僕が「プロ経営者」になれた理由』刊行。
 17年 パナソニック専務役員、コネクティッドソリューションズ社社長就任。パナソニック代表取締役専務執行役員。

■上阪徹 
1966年、兵庫県出身。早稲田大学卒。著書に『サイバーエージェント 突き抜けたリーダーが育つしくみ』『マイクロソフト 再始動する最強企業』『JALの心づかい』他多数。

AERA 2020年4月27日号

※本記事のURLは「AERA dot.メルマガ」会員限定でお送りしております。SNSなどへの公開はお控えください。

[AERA最新号はこちら]