悩み抜いた末に退社を決断。1カ月後、HBSの卒業生も多いボストンコンサルティンググループ(BCG)のコンサルタントに転身した。

「ところがBCGでは入社初日、人事からこう言われたんです。昇進するとき人数は半分になる。さらに昇進するときにはまた半分になる。これには震えるほどの恐怖を覚えました」

 実はまだ自身を改造し切れていなかった。BCGでは社員が徹夜も辞さずに猛烈に働いていた。

「衝撃でしたね。頑張るしかない、と私も働き過ぎて倒れ、救急車で運ばれたこともありました」

 その後、アップルコンピュータ(現アップル)に転職、マーケティング部門を率いる。このときセールス部門を率いていたのが、PhoneAppliエグゼクティブフェローの窪田大介(65)だ。出会って2年、窪田は思わぬ相談を受けた。

「営業をやってみたい、と言われたんです。MBAホルダーでBCG出身のエリートから。驚きました。それで私の下についてもらいました」

 担当したのは当時、売り上げの半分ほどを占めていた大手パソコン販売会社。最前線の厳しい営業経験を望んだのは樋口自身だったが、昭和の感覚が色濃く残る時代の営業である。まずは徹底的に試された。時には、トラブル対応で夜中に呼び出される。明日までにこれを用意しろ、などの無理難題を突きつけられる。窪田は続ける。

「修羅場ですよ。それでも、樋口さんは必死にくらいついたんです。愚直に、誠実に、まじめに」
 
■業績悪化のダイエー再建、危機感で体重は8キロ減に

 売り上げは伸びた。華やかな経歴を持ちながら偉ぶらない樋口に販売会社の幹部はすっかりファンになり、絶大な信頼関係が生まれた。その後、転職したコンパックでも、樋口を見込んで取引が始まる。だが、コンパックのパソコンは日本では苦戦していた。アメリカ仕様で大きさやデザインが日本市場に合わない。樋口は本社に乗り込み、日本仕様を作れと直談判する。役員からは相手にされなかったが、あきらめなかった。いいと言うまで日本に帰らない、と2週間も粘った。コンパックでも樋口と一緒に仕事をした窪田はいう。

「アメリカがそう言うからしょうがないよ、と言う上司も多いんです。でも、樋口さんは違った。みんな奮い立ちましたよ。絶対に売ろう、と」

 3万台だったコンパックのパソコンの販売台数は、3年で10倍を超えた。その後、会社は日本HPと合併。樋口は45歳にして6千人企業の社長に抜擢された。ところが、樋口のもとに思わぬオファーが飛び込む。バブル崩壊後に業績が悪化、赤字から抜け出せず、04年から産業再生機構の支援を受けていたダイエーの再建だ。樋口に社長就任を依頼した、当時の産業再生機構COO、現在は経営共創基盤社長の冨山和彦(60)はいう。

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