「ダイエーは20世紀の日本経済の象徴だったんです。ひとつの時代に終止符を打ち、次の時代に行かなければならなかった。求められていたのは、破滅的にならないよう終わらせること。経営者としては、極めて難しい仕事でした。日本企業を知っていて、世の中に存在する事業のすべての要素を持つ製造業の経験があり、地に足を着けて苦しい状況を乗り切ることができる。そのどれもに合致する樋口さんは、まさに適任者でした」

 樋口は当初、固辞した。しかし、「つらい思いをしている社員を助けてもらえないだろうか」という冨山の言葉に心が動いた。冨山からもらった分厚い手紙を、樋口は今も大切に持っている。

 しかし、ダイエーの現場の疲弊ぶりは想像以上だった。何度もリストラが行われ、社員の心は荒んでいた。売り場を理解しない本部に対する不信も強かった。小売業の再生には時間がかかることにも気づき、怖くなった。責任の重さと危機感から、体重が8キロも落ちた。それでも毎週、応援のため店長に電話をかけ続けた。閉鎖が決まっている54店舗のほとんどに秘書も連れずに出向いた。「なぜ閉店なのか」と目を真っ赤に腫らして訴えるパートの女性と向き合い、閉店に泣き崩れる社員の前で言葉を失った。最後のシャッターが閉まる店で自らも客に頭を下げた。樋口はいう。

「今さら閉鎖店舗を訪ねてどうするんだ、という声ももらいました。でも自分自身の気持ちが許さなかった。ダイエー社員はこれ以上頑張れないくらい頑張っていたんです。経営の責任が大きかった。経営の怠慢は、社員を不幸にするんです」

 最後の閉鎖店舗が出た月、2年3カ月ぶりに既存店売り上げがプラスになった。以降10年ぶりに11カ月連続プラスを達成。だが06年7月、産業再生機構は保有株を丸紅に売却。役目は終わったと考えた樋口はダイエーを離れる決断をする。

 ダイエーを辞めた樋口を求めて60を超えるオファーが来た。選んだのはマイクロソフト。CEOだったスティーブ・バルマー(64)に会い、強い危機感に驚いた。同社で知ったのは、グローバル企業がいかに厳しい戦いをしているか、だった。

「CEOは人格者でしたが、数字に対しては冷徹でした。あれだけ頭のいい人たちが集まって、あれだけ頭を使って猛烈に働く。正直、日本企業が簡単に勝てるわけがない、と思いました」
 
■パナソニックを再び強く、恩返しできるチャンスに

 16年7月、日本マイクロソフト会長になっていた樋口は、かねてからビジネス上でも付き合いのあったパナソニック社長の津賀一宏(63)から食事に誘われた。大きな鞄を持って現れた津賀は、食事中に資料を取り出し、パナソニックの現状を説明したという。そして、食事も終わろうかというとき、津賀は「戻ってきませんか」と言った。

「驚きました。津賀さんは、パナソニックは変わらないといけない。そのためには多様なバックグラウンドを持っている人が必要だと。ただ、劇薬も難しい。会社のDNAをわかっている人でないといけない。それが私だと」

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