■反対派と運営団体、それぞれの主張は
一方でコンテストは、運営団体やファイナリストなど多くの人が学生生活を挙げて携わってきたイベントだ。こうした各関係者は、どのような立場をとっているのだろうか。反対を唱えた有志団体「ミスコン&ミスターコンを考える会」と、それに応じるコンテスト運営団体「東京大学広告研究会」の立場を見てみよう。
<「ミスコン&ミスターコンを考える会」のコメント>
私たちは大学キャンパスでのミス・ミスターコンの中止を求めます。特に、女性の方が男性に比べ容姿や振る舞いを評価されることが多いことを問題視し、ミスコンに注目しています。
女性は日々否応なしに外見や「女子力」などを男性に評価され、苦しむ人もいます。コンテストはこうした日常的な行為を大々的に学園祭の企画として行い、追認するものです。
明確な選考基準がない中で人々が選ぶミス東大は、外見含め「理想の女性像」に合致する人です。出場者はいかに自己表現するかに関わらず容姿や、投票者の要望に沿っているかを基に評価されます。こうしてコンテストは支持者が男性であろうと女性であろうと、ある一定の「女性はこうあるべき」というジェンダー規範を再生産し社会に浸透させています。このジェンダー規範が多くの女性を拘束し傷付けているのです。
コンテストが東大生の中からミス・ミスターを選ぶものである以上、東大生は皆当事者です。コンテストに出場するかを決める際、自身が日常的に経験する「ミスコン的行為」や「男性的な」視線による外見への評価の結果に鑑みる人は多いのではないでしょうか。つまりファイナリストとは東大生全員を対象とした「予選」を勝ち抜いた「決勝進出者」なのです。
当事者は東大生だけではありません。現在社会ではさまざまな場所で「ミスコン的行為」が行われることにより、「理想の女性像」のコンセンサスが作られています。ミス・ミスターコンや、それが再生産するジェンダー規範はその一部です。社会全体で共有される規範の構築に参加する人、そしてその影響を受ける人は皆当事者なのです。
コンテストが「ミス」と「ミスター」のみで構成されることにも反対です。この区分は、二つの枠に収まらないマイノリティ属性を否定しています。駒場祭でファイナリストがウェディングドレスとスーツで登場する演出も、異性愛や結婚という行為が当然で「普通」である、という規範を前提としています。
コンテストは学園祭を盛り上げ、出場者や観客を力付ける企画かもしれません。人を楽しませることや自分の中の理想的な外見の追求自体は否定しませんが、人に順位を付け評価する行為で傷付く人がいる以上、開催は許されません。
人を評価する行為は芸能界や、学力や運動神経に基づいたものなどあらゆる場面で見受けられます。ミスコンを廃止することは、こうした行為を緩和する一助となるでしょう。(談)