澄み渡った上川の秋空の下、旭山公園行の電車が走り去る。正面の下方には夜間に点灯する車幅灯が装着されている。旭川追分(撮影/諸河久:1967年10月3日)
澄み渡った上川の秋空の下、旭山公園行の電車が走り去る。正面の下方には夜間に点灯する車幅灯が装着されている。旭川追分(撮影/諸河久:1967年10月3日)

 1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。昨年に引き続き夏休み特別編として、諸河さんが半世紀前の学生時代に撮影した各地の路面電車の風景をお届けする。

【札幌、函館、旭川を50年以上前に走った路面電車が蘇る! 当時の貴重な写真はこちら(計6枚)】

*  *  *

 今回は、東京を飛び出して北海道の路面電車をご紹介しよう。コロナ禍に、北の街のレジェンドである「路面電車を巡る旅」に思いを馳せてみるのはいかがだろうか。

 旭川電気軌道、札幌市交通局(現札幌市交通事業振興公社)、函館市交通局(現函館市企業局交通部)の3社にスポットを当てた。1973年に全線が廃止された旭川電気軌道(以下旭川電軌)を除いて、路線が縮小されたものの札幌市、函館市は盛業中で、共にバリアフリーの低床式車両を導入するなど、時代に適応した運営を続けている。

■旭川電軌は最北端の路面電車

 旭川電軌は旭川追分~東川を結ぶ東川線が1927年に開業している。その後、旭川追分から旭川四条(あさひがわよじょう)を経て、国鉄旭川貨物駅に路線を延伸。旭川追分から分岐する東旭川線を全通させた1930年には、22200mの営業距離になった。旭川四条~国鉄旭川貨物駅は貨物専用線となり、旅客営業は旭川四条駅を起点にして、それぞれ東川駅と旭山公園駅とを結んでいた。全線単線で軌間は1067mm、電車線電圧は600Vだった。

 軌道法で運営されているために「路面電車」の範疇(はんちゅう)に入れているが、車両はステップのない通常形態で、駅や停留所の乗降にはプラットホームを使用していた。主要路線はサイドリザベーション方式で、道路端に専用軌道が敷設されていた。併用軌道を走らないので、路面電車の証でもある「排障器」は未着装だった。道路脇を走るため、夜間には車幅灯を点灯していた。

 冒頭の写真は東川線と東旭川線の分岐駅である旭川追分を発車して旭山公園に向かうモハ100型。本線はパンタグラフで集電したが、車庫内の架線事情によりポールも併用していた。往時の旭川電軌は、上川盆地の穀倉地帯である東川町の農産品を輸送する農業鉄道として機能しており、国鉄に直通する貨車を電車が牽引していた。モータリゼーションが普及し始めた1960年代半ばから赤字経営に転落し、1972年末限りで廃止されている。

旭川四条駅に待機する東川行きの電車。その背後を宗谷本線の貨物列車が通過していった。右側に停まっているのはラッシュ時に増結する客車で、旧国鉄キハ05型からの改造車だった。(撮影/諸河久:1967年10月3日)
旭川四条駅に待機する東川行きの電車。その背後を宗谷本線の貨物列車が通過していった。右側に停まっているのはラッシュ時に増結する客車で、旧国鉄キハ05型からの改造車だった。(撮影/諸河久:1967年10月3日)

 次のカットは旭川四条駅の一コマで、東川行きの100型が待機している脇を国鉄(現JR)宗谷本線の下り貨物列車が通過するシーンだ。蒸気機関車の右手に旭川電軌旭川四条駅のプラットホームが写っており、左手に続く木造のホームは国鉄の旭川四条仮乗降場だった。ちなみに、旭川四条が仮乗降場から駅に格上げされたのは1973年9月で、すでに旭川電軌は廃止されていた。
 

著者プロフィールを見る
諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

諸河久の記事一覧はこちら
次のページ
札幌の路面電車は…