■16歳で日本に帰国を決意、漢字ドリルで書く勉強を
ブダペストの街は世界遺産に選ばれており、いくつものコンサートホールやオペラハウスがあって、街全体が美術館のようだった。そんな環境の中で勉強に打ち込んでいた金子だったが、15歳の時、腕の不調で1年間ピアノが弾けなくなったことがある。整形外科で診てもらったが何の問題もない。忙しい生活で栄養不足や睡眠不足が続いた上、自分はこれからどう生きていくのかという悩みが思春期の彼を押しつぶしていた。
時代の変化もあった。ハンガリーがEUに加盟して国のシステムが変わり、リスト音楽院大学で既に5年間みっちり学んできた金子に、18歳まで在学しないと卒業証書がもらえないという難題がもちあがったのだ。紙一枚のためにここに残る意味はない。当時のことをガーボルはよく覚えている。父と息子のように親しい弟子だった金子が、改まった表情で部屋を訪ねてきてこう言った。
「日本に帰ることを考えています」
ガーボルは金子の言葉にじっくり耳を傾け、
「君の話はよくわかった。家に帰り、邪魔なものをすべてシャットアウトした場所でじっくり考えて、2日後に結果を教えてくれ」
と言って帰した。すると9時間後に明るい声で、「日本に帰ることに決めました!」と連絡があった。クラシック音楽の本場である欧州からあえて日本へ帰ることに決めたのは、父の妹夫婦のアドバイスもあったという。特に国際派ビジネスマンである叔父は迷う金子にこう言った。
「勉強するなら音楽の伝統がある土地が良いけれど、これからは情報の発信や受信に便利な大都市で暮らしてはどうか? ニューヨークやロンドン、アジアなら上海か東京がいいと思う」
それなら東京に行こう、と彼は思った。決意を恩師たちも後押しした。6歳で離れた日本。だが自分は何人なのか。ハンガリーの生活ではちゃんとハンガリー人になれたという実感があった。
「同じくらい日本人にもなりたいと思いました」
16歳で帰国。東京音楽大学付属高校の2年生に編入した。11歳でリスト音楽院大学に入り、実技も教養もみっちり鍛えられてきた金子が、果たしてすぐ馴染めたのだろうか。「同級生が子どもっぽく見えませんでしたか?」と訊ねると、金子は苦笑しながら「正直、見えました」と答えた。
「でもすごく温かい学校だったんです。先生方はもちろん、同級生もみんな支えてくれて。わからないことはなんでも教えてくれました」
話すことには不自由はなかったが、書くほうはひらがなさえ怪しかった。金子は公文の漢字ドリルをせっせとこなしたという。今では読み書きに不自由せず、美しい敬語を使いこなす。親しいクラスメートでフルート専攻だった河野彬(30)は、
「プライドの高い彼がよくぞ教室で小1向けのドリルをやっていたと思いますよ。彼は抜きんでた実力があったのでまわりも気を遣っていたけど、僕は席が近かったし、普通に仲良くしてました。試験ではモーツァルトのフルート協奏曲の伴奏をしてもらったし、副科で取ったピアノの試験でも彼がハイドンの協奏曲を薦めてくれた上、オーケストラ部分を弾いてくれました。試験の会場に入っていった時の先生たちの驚いた顔ときたら(笑)。『金子三勇士に伴奏させるなんて!』って。他にもいろいろと共演しています」