■11歳でリスト音楽院大学、昼食も食べず帰宅は22時
彼はあまり多くを語らないが、3カ月だけ通った日本の学校ではいじめを受けている。金髪碧眼の母は地方都市ではひときわ目立った。髪や目が黒い金子も、目鼻立ちから母の血を引いていることは隠しようがない。ハンガリーでも小5まではいじめらしきものがあった。親元から離れた祖父母との田舎暮らしも楽ではなかった。
「僕が怪我でもしたら、両親から任された祖父母に迷惑がかかりますよね? だから心配させるまいとやんちゃなことはしないようにしていたし、いわゆる反抗期もありませんでした。お互いに気を遣い合って暮らしていたんです。子どもながらアイデンティティーに悩んだこともあります。でも、それがあったから音楽に打ち込めたんだとも思うのです」
金子の恩師であるハンガリー国立リスト音楽院大学教授のエックハルト・ガーボル(67)は、彼を8歳ごろから知っている。子どものための全国連弾コンクールの審査員として、初めて金子の演奏を聴いたのだ。
「連弾をした仲間とのアンサンブルがよく、芸術的に優れていました。何より音楽に対する情熱が素晴らしくて、将来大物になると思いましたよ」
2001年にはハンガリーの全国ピアノコンクール/9~11歳の部で優勝。ハンガリーは優れた音楽的な伝統を持ち、教育メソッドも非常にレベルが高い。その中で金子は、普通14歳で入るリスト音楽院大学の特別才能育成コースに11歳で入学を許可された。12歳で祖父母の家を出て13歳からブダペスト市内に独り住まいし、普通の学校とリスト音楽院大学の両方に通った。
「たまたま二つの学校が近かったんです。授業がぶつかる時は学校と交渉して、受ける授業を振り替えてもらったり、リポートにしてもらったり。毎日走って行き来するので昼食を食べる時間もありませんでした。帰宅は午後10時。閉店直前のスーパーで買った食事をとる生活です」
リスト音楽院大学での生活は充実していた。ハンガリーが誇る作曲家のバルトークやコダーイに直接教えを受けた名教師がずらりと揃い、実技や理論を徹底的に教える。また哲学や文学、歴史、芸術全般のカリキュラムが組まれ、音楽家の土壌を広く耕すことに力を入れていた。金子は教授たちの分厚い教養に圧倒される思いだった。
「ここの学生は市内で行われるコンサートにはほとんど無料で入れるんです。終わると楽屋に音楽家を訪ねて話をすることも多かったですね。美術館も無料でした」