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日本人の父とハンガリー人の母を持ち、小1でハンガリーへ留学。金子三勇士は国内外で活躍する人気ピアニストになった。順風満帆に見えるが、不安な日々もあった。日本に帰った後、国際コンクールで優勝もしたが、思うように露出できずにいたのだ。自分を支えてくれる人と出会い、多くの演奏会ができる今を幸せに思う。この感謝の気持ちを、次はどう返すかを考えている。
ある秋の一日。東京都狛江市にある緑野小学校の音楽室で、4年生の生徒たちが椅子に座って、あるピアニストの登場を待っていた。バタンと勢いよく隣の楽器室の扉が開くと、金子三勇士(30)が燕尾服のテールをたなびかせながら入ってきた。その姿に生徒たちが「うわーっ!」と驚いた表情を見せる。金子がコンサートと同様に重視しているアウトリーチ活動の始まりである。
その日の朝、金子と駅で待ち合わせた時は、好きだというボーダーTシャツにジャケット、マスクという格好でキャリーバッグを引いていた。中身は燕尾服。アウトリーチ活動では正装すると決めている。言葉遣いも大人に対する時とまったく同じ。それは生徒たちに敬意を持って真剣に向き合おうという姿勢の表れである。
金子はまず、生徒たちにクイズを出した。
「僕は日本人でしょうか? それとも外国人でしょうか?」
迷いながら手を挙げる生徒たちに、彼は自分が日本人の父とハンガリー人の母との間に生まれたと教え、胸元に刺したピンバッジを示した。バッジは両国の国旗をデザインしたものだ。後ろに立つ私には、小さな背中や頭が好奇心でさざ波のように動くのがよく見えた。
ミニライブは和気藹々と進んだ。ショパンの「英雄ポロネーズ」を演奏する際には子どもたちをそばに呼び、入れるだけピアノの下に潜り込んでもらう。入りきれない子は彼を囲んで指の動きを見つめる。最初の一音が鳴った途端、音の大きさや広がりにびっくりして一騒ぎとなった。普段授業で聴き慣れたピアノからこんな音楽が溢れてくるのかという驚きと感激。時間はあっという間に過ぎていき、金子は子どもたちの笑顔と大きな拍手に送られて楽器室に引き揚げた。この日は45分の授業が3コマあった。続けて3コマでは疲れるはずだが、淡々と「慣れていますから」と言う。彼は国内外で年間130~140回ものコンサートをこなし、テレビやラジオへの出演も多い。出かけていくのは小学校に限らない。時には親と離れて暮らす児童養護施設にも行く。
「こういう施設では45分だと足りないですね。心を開いてもらうまでに45分かかります。緑野小学校でやったようなつかみは通じないし、最初からバルトークのような過激な曲を弾くと心を閉じてしまうので、バッハやモーツァルトのような静かな曲から始めます。音楽の原点ですからね。それから僕自身の体験を話すことにしています」
その体験とはどのようなものだろうか。金子は群馬県高崎市に育った。当時の両親は語学学校経営などの仕事に忙しく、ハンガリーから祖母がやってきて幼い孫の面倒を見ていた。民族音楽の研究家でもあった祖母は、孫にハンガリーの民謡や子どものための音楽をたくさん歌って聴かせてくれた。
中でも金子の心をとらえたのは、名ピアニストのゾルタン・コチシュが弾くバルトークのピアノ小品集「子どものために」である。2歳で家にあったアップライトピアノを自由に弾き始め、家族旅行でハンガリーに行ったことで、ピアニストになりたいという気持ちが強烈に湧いてきた。その結果、彼は小1で単身ハンガリーへの留学を決意する。自然豊かな地にある祖父母の家に住み、ブダペストにあるバルトーク音楽小学校へ80キロもある道を毎日通う生活が始まった。フン族の大王アッティラから取った「アティラ」というハンガリー名も持った。