そもそも、市電池袋線が護国寺前~池袋駅前に敷設されたのは1939年4月で、すでに中国大陸では隣国と戦火を交える準戦時体制の時代になっていた。そのため、軌道・電柱などの建設資材は、物資不足を補うため全て中古品で調達された。ことに王子電気軌道(1942年に市営に編入され都電荒川線として現存する)と平面交差する日出町二丁目(後年東池袋四丁目に改称)は、王子電車の軌道を嵩下げ(かささげ)する難工事を強いられたようだ。
■都電の轍音を肴に一献傾けたくなる
次のカットが、先ほどの小篠坂をほぼ上り切った日出町通りに所在した大塚坂下町停留所の一コマだ。小篠坂を上った先が「坂下町」であることに違和感を持ったのは、筆者だけではあるまい。山手線の大塚駅から直線距離で約1000mにあるこの界隈は、画面に写っている日出通りの東側の町名が文京区大塚坂下町だったため、護国寺方面からの上り坂を配慮せずに、町名がそのまま停留所名になったのだ。
写真には臨時20系統上野広小路行きが写っている。池袋駅前~上野広小路を結んでいた臨時20系統は、上野界隈への行楽客の利便を図るため、日曜祝日に多くの本数が運転されていた。したがって、撮影した1965年11月18日はてっきり日曜日だと思っていた。半世紀が経過して改めてカレンダーを紐解くと、この日は木曜日であった。よく考えれば、画面右側に前述の日大豊山校から下校する生徒が歩いていることからして、日曜日であるわけがない。
この臨時20系統は、平日の夕方ラッシュ時に増発されたものと理解できた。池袋駅目指して歩く豊山校の生徒さんを観察すると、肩からズックカバンを袈裟懸けにしているのが中学生で、革鞄を下げているのが高校生だ。今の筆者ならば、都電を撮った後で停留所に近接する「でこま・ひこま」の暖簾をくぐり、電車道から聞こえてくる轍音を肴に熱燗で一献ということになるだろう。当時、筆者は、この店先を下校していった豊山の高校生と同じ日大三高の制服に身を包んでいた。無論、飲酒はご法度だ。
諸河久
55年前「銀座」から名物都電が消える日 高度経済成長期に役目を終えた銀座線「有終の美」