特筆すべきは、豊臣秀吉と徳川家康のキリスト教への対応です。
信長亡き後の秀吉と家康が、どのようにキリスト教と対峙したかが、日本史にとても大きな影響を与えたと私は感じています。
もし、秀吉や家康がキリスト教を受け入れ続けたら、日本はキリスト教国になっていた可能性が高く、その結果、ヨーロッパ諸国による植民地化が進んでいたかもしれません。
この場合、江戸幕府が200年以上続いたかは保証できません。またキリスト教とは相いれない面がある国家神道や天皇制に影響をおよぼしたとしても不思議ではありません。
外国文化が入ることで、一国中心的な思考が正されたかもしれません。いずれにしても、キリスト教を受け入れたか否かは日本史の大きな分岐点と言えるでしょう。
秀吉が天下を取った頃、日本にはすでにキリスト教に改宗した「キリシタン大名」がたくさんいました。キリスト教が異教徒に厳しい宗教ですから、彼らは神社仏閣を次々と焼き払い、神社や寺が逆襲するなど、深刻な対立構造が生まれていました。
キリシタン大名はまた、日本人が奴隷として東南アジアに送られるのを容認しており、秀吉はこれに激怒しました。
こうして1587年にバテレン追放令が出され、キリスト教は禁じられるのです。
天下統一後は、甥の秀次一家の殺害など残虐なイメージもある秀吉ですが、日本人の奴隷化に激怒したことについては、近代の人権意識につながる視点とも思われ、私の秀吉についての見方が少し変わりました。
秀吉の後、天下統一を果たした徳川家康は当初はキリシタンと融和路線を取りますが、徐々に厳しくなりキリシタン禁令を発令しました。徳川家光の時には踏み絵を導入。
キリストや聖母を刻んだ石板を踏めなければ逮捕し、時には死にいたる拷問も行われました。イスラム教徒とキリスト教徒との戦争では、お互いに殺し合っているわけですが、日本は戦争をしたわけではありません。
統治者によってキリスト教徒が殺され、キリスト教徒をゼロにしようとした。250年もの禁教というのも珍しい例です。
良い・悪いは別として、日本のあり方に大きな影響を与えた出来事として、覚えておいたほうがいい史実です。