自宅で死に化粧の練習。1年前から納棺師を始めた。「事業で自分の給料は残らないのもあるけど、両親など死に接する機会が多かったから。死ぬのは怖くない」(撮影/大野洋介)
自宅で死に化粧の練習。1年前から納棺師を始めた。「事業で自分の給料は残らないのもあるけど、両親など死に接する機会が多かったから。死ぬのは怖くない」(撮影/大野洋介)

 そして、2015年夏。少女の誕生日に会社を登記した。「生まれてきてくれて、ありがとう」の感謝を伝えたかった。三宅の中で、他人事が自分事になった瞬間だった。

 社名は、父からプレゼントでもらった、米国の劇作家ウィリアム・サローヤンの著書『ヒューマン・コメディ』からとった。人生はトラジェディ(悲劇)以外全部がコメディ(喜劇)と言われる。

「目の前のどんな悲劇も、喜劇に変えてみせる。人生全部ネタにすればいいっていう私の生き方と合っていると感じた」(三宅)

■何度も裏切られても、「待ってるよ」と呼びかけ

 両親との確執、ヤンキー時代、失業中に施設でボランティアをした過去さえも、三宅は自らの糧にして価値に変えてきた。急がば回れとはいうけれど、回り道はこんなにも人を豊かに成長させるのだ。

 この底力は、遺伝子の妙か。すでに母、父と続けて見送った三宅は「二人が私の原点」と話す。傷ついた友人を自室で慰めていると、ユーモアを愛し慈愛に満ちた両親は、笑わせて元気づけようと、腰をくねらせ踊ったこともあった。「あなたは外に出たほうがいい」と言い続けた母は、23歳で上京する娘を見送ったあと「私は明日からどうやって生きていけばいいの」と新潟駅のホームで泣き崩れたと聞いた。姉の泉も「晶子は正義感とやさしさを両親から引き継いだ」と振り返る。

 彼女のやさしさがうかがえる話がある。

 三宅が初めて仕事を紹介したのは、たった一度の自転車泥棒がもとで人生を転落させていた男性。正社員になり、給料はひと月で10万円もアップした。「三宅さんの第1号であることが自分の誇り」と話していた。後に続く人の見本になってくれると三宅は信じたが、数カ月後に行方不明となり窃盗で捕まった。三宅が面会して半年後に別の場所で再び逮捕。「お世話になった人たちを悲しませちゃダメでしょ!」と最後は怒鳴ってしまった。

 目を真っ赤にしてうつむいていた彼から、それきり連絡はない。だが、三宅は自社サイトで「待ってるよ」と呼びかける。裏切られても、嘘をつかれても、本気で信じ通そうとしているのだ。

 出会った出所者のことを話すときの三宅は「ホント、あの子、危なっかしいのよ」とまるで母親のような顔になる。三宅自身は不妊治療をしたが、授からなかった。

子育てをしていたら、この仕事には出会えなかった。親にならなかったのは、ほかに役割があるんだと思う」

 出所者を、経営する物販の会社で預かったことのあるおだしプロジェクト主宰の土岐山協子(47)は「三宅さんが大好き。あの笑顔がヤバいでしょ。彼女は一生懸命に生きているから、どんどん救いの手が差し伸べられるのでしょう」と話す。

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