戦火を免れた旧い商店が軒を連ねる魚籃坂下の一コマ。残暑の街角に5系統目黒駅前行きの轍が響く。古川橋~魚籃坂下(撮影/諸河久:1963年9月1日)
戦火を免れた旧い商店が軒を連ねる魚籃坂下の一コマ。残暑の街角に5系統目黒駅前行きの轍が響く。古川橋~魚籃坂下(撮影/諸河久:1963年9月1日)

 別カットは大震災と戦災から焼失を免れた芝三田松坂町を背景に走る5系統目黒駅前行きの都電だ。写っている商店街を判別すると、右から福島金物店、芝三田松坂町郵便局、三松ホールパチンコ店が軒を連ねている。都電の左隅に写っているのが芝白金志田町の商店街で、こちら側には酒屋。魚屋、八百屋などが盛業していた。夕方ともなると生鮮食料品を求める割烹着姿の買い物客で賑わい、昭和情緒に包まれていた。

 現況写真は魚籃坂下バス停から三田五丁目方向を写した一コマだ。魚籃坂下バス停には都バスの反94・反96・品97系統が頻繁に運行されており、往時の都電4・5・7系統を彷彿とさせてくれる。画面中央から左側にかけては麻布通りのバイパスが写っていて、右側を占める旧電車道は拡幅されずにバス通りとなった。画面左の高輪一丁目側の街並みは、麻布通りの拡幅や1980年代バブル期に様相が激変し、当時の面影はほとんどない。かつて筆者が通ったカツミ模型店も1982年に移転している。

郵便ポストの位置を手掛かりにして、かつての撮影地を探った。旧景の芝三田松坂町郵便局は空き地になっており、その左側にかめがや時計店の建物が隣接している(撮影/諸河久:2020年1月7日)
郵便ポストの位置を手掛かりにして、かつての撮影地を探った。旧景の芝三田松坂町郵便局は空き地になっており、その左側にかめがや時計店の建物が隣接している(撮影/諸河久:2020年1月7日)

 近景の画面中央のレンガ色のビルで「かめがや時計店」を営む亀ヶ谷茂さんのお話を伺えた。

「私の店は祖父の時代の1948年、高輪で創業しました。その後、古川橋南詰の白金志田町に移転しましたが、麻布通りの拡幅工事で再度の移転を余儀なくされたのです。電車道東側の三田松坂町旧郵便局隣の現在地(パチンコ店跡地)を取得し、移転したのが1967年でした。その頃、店の前には都電が走っていましたね」

 旧景に写っている郵便局前のポストは、丸から角に形状が変わっても設置場所が変わらないことも確認できた。

魚籃坂の呼称の由来となった「魚籃寺」の門前。鮮やかな朱色の山門が印象に残った(撮影/諸河久:2020年1月7日)
魚籃坂の呼称の由来となった「魚籃寺」の門前。鮮やかな朱色の山門が印象に残った(撮影/諸河久:2020年1月7日)

■魚籃坂の由来と高輪ゲートウェイ駅

 7系統は画面右側の魚籃坂下交差点直進し、急な魚籃坂を上って品川駅前に向かう。魚籃坂の由来となったのが、坂道の東側にある「魚籃寺」だ。ここに祀られる魚籃観世音は右手に魚の入った籃を、左手に衣を持っており、長崎から伝来した仏像と伝えられている。都電左側の車窓からは朱色の山門を垣間見ることができた。次の伊皿子停留所が分水嶺になっており、ここから次の泉岳寺前まで伊皿子坂を下って行く。伊皿子坂は潮見坂とも呼ばれていた。高層建築のない往時は、赤穂義士が眠る「泉岳寺」の山門あたりから東京湾が一望できたそうだ。

 現在は、京浜国道の向こう側にJRの品川車両基地跡を遠望することができる。車両基地跡の広大な敷地にはオフィスビル群の建設が予定されており、今年3月のダイヤ改正から、いよいよJR山手線の新駅「高輪ゲートウェイ駅」が開業する。山手線・西日暮里駅開業が1971年4月だったから、じつに49年ぶりの慶事になる。比較的静かだったこの界隈も、騒がしくなるのだろうか。

■撮影:1965年10月17日

◯諸河 久(もろかわ・ひさし)
1947年生まれ。東京都出身。写真家。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経て「フリーカメラマンに。著書に「都電の消えた街」(大正出版)、「モノクロームの私鉄原風景」(交通新聞社)など。2019年11月に「モノクロームの軽便鉄道」をイカロス出版から上梓した。

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