●死についてどう考える?

後閑:死ということは、世間一般では今までタブー視されてきたように思います。あえてそこに触れようと思うのですが、鈴木さんは甲状腺がんのステージIVですが、患者の立場から死についてどう考えますか?

鈴木:死がつらいとか怖いとかいう概念が僕にはないんです。
 当たり前に来るものだから、当たり前に来ればいい。楽しみというわけではないですが、まぁ来るよね、という気持ちです。
 だから、自分がやりたいことがやれている、ある程度やった段階で自分の中の合格ラインだと思える段階にいれば、その時に死が訪れても嫌じゃない。
 逆に、人生の中でやりたいことがあるのにまだやれてないという段階で死が来たら、たぶん後悔するだろうなとは思います。ですが僕がやりたいことは大体できているので、だから死が来ることはそんなに嫌なことではないですね。

後閑:鈴木さんは本の中でも、「運命は運命、粛々と向き合えばいい」「生きていたいのではなく、やりたいことを実現させたいだけ」と書かれていますが、その通りだなと思っています。
 こうしたいという意欲は、イコール「生きたい」だと思うんです。
 だから、そんなことをしたら危ないから、そんなの無理だからと、周りが本人の「したい」を否定するということは、その人が生きたいということを否定するようなものだと思います。
「こうしたい」というのは、「こう生きたい」という意味だから、そういう時に周りの人はしたいことを受け入れてほしいと思っています。その結果、たとえば飲み込む機能が衰えているのに食べたいというのであれば、たとえ窒息のリスクがあろうが肺炎のリスクがあろうが、食べさせる努力をしてみてほしいし、外出したいというのであれば、たとえ骨折のリスクがあろうが何か問題があっても、それはリスク承知で私ならやらせてほしいと思いますね。

鈴木:だからそこをちゃんと要望書に書いておけば、医療者や介護者だって「要望書に書いてあるんだから」と言えますし、そこを患者側が医療者や介護者を咎めるのではなく、患者や家族の側から要望することを事前に渡すことによって、生きたいように生きればいいわけです。その結果に限らず死は絶対に訪れるのですから、それはそれでいいんじゃないかなと思っています。

後閑:病院だと安心安全を第一にするので、食べられなくなってきたら、脱水になるので点滴しましょうかとか、そろそろ飲み込みが悪くなってきたから禁食にしましょうかとか、食事にとろみをつけたりミキサー食にしたりして本人が食べたいものも食べられなくなっていきますが、それが病院の致し方ないところではあります。

鈴木:肉体的なところは、医学的な延命を施すことになるでしょうし、命を永らえるという意味ではそれが正しいのかもしれませんが、本当の健康を考えた時には、精神的、社会的な側面を考えると違う手段も出てくるかもしれない。それはご本人がどう考えるかによるでしょうね。

後閑:医療は手段ですから、なぜそれをしたいのか、したくないのかという理由を聞いておいてもらいたいです。
 胃ろうを嫌がる患者さんは結構いるんですが、胃ろうが嫌なら食べられなくなったら鼻から管を入れて栄養を流し込む経鼻経管栄養をしましょうと言うと、それについては家族からそうしてほしいと言われることがあります。
 そもそも鼻から管を入れるのは苦しいものですし、抜いてしまう危険性があるから抑制(手に「ミトン」と呼ばれる道具をはめるなどして身体の自由を制限する)しなくてはならなくなったりします。そういうことが人権的にどうかというところから、胃ろうなら栄養を流している時にだけ抑制をすればいいので、そのほうがいいだろうということで普及したわけですが、それが胃ろうがだめとなれば、鼻から管で、ということになります。
 なぜ胃ろうが嫌なのか、どう生きたいと思っているのか、抑制されてまで生きたいと思っているのか、といった辺りの話がないんです。

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人生観を考えておくことが必要な訳