この研究の過程で、武部は病気に強く関わる「免疫系の細胞」を「ミニ肝臓」を作る細胞に一時的に加えて培養するという試みを提案した。本来、肝臓を作る上では特に要らない成分で、阻害要因にもなり得る。ネガティブな条件をあえて実験に取り込んでみようというのが武部流。「正直、無茶ぶりだと思った」大内だが、辛抱強く成分の調整をしながら、培養実験に明け暮れた。

「肝臓の細胞とは起源が違うので、一緒にした時に免疫系の細胞は本来、一定の割合で出てこないはず。なのに実際は、『あれ? あった!』となって研究が始まったんです。武部先生からの無茶ぶりは成功体験が重なって、不思議といつも無茶ぶりじゃなくなる」(大内)

 武部は横浜市出身。「医者とは無縁の家系」で育ったという。両親の祖父はともに実業家。父はサラリーマンで母はパート職。両親は大学のオーケストラ部で出会い、長男の英輔(35)にはピアノを、武部にはバイオリンを習わせた。

 私立の中高一貫校「桐蔭学園」(横浜市)に進みブラスバンド部に所属した武部は、高校でアルトサックスにのめり込み、ストイックに練習を積む「コアメンバー」に。「武部君がいた代は、しばらく見なかったほどに熱い学年だった」と当時の顧問、山岸淳(52)は振り返る。

 とはいえ、部活に重きを置かない部員もいる。コアメンバーはコンクールの関東大会出場が悲願で、「上手いメンバーに絞って上を目指したい」と山岸に直訴。山岸は「学校の部活だから皆に機会を与える。選抜はしない」と諭した。武部を含むコアメンバーは、悔し泣きしていたという。音楽を通じて「人間」を学ぶ場でもあった。

■臨床研修をすっ飛ばし、大学卒業後に研究の道へ

 音大に進んでプロの音楽家になるか、医学部を受験するか。武部は二択で悩み、後者を選んだ。

「医学部を受験するというのに高3の夏まで(部活を)やりきる凄まじさで。彼はそれでも、成績は常にトップクラスを維持していた。熱い目標を持ちつつも、人についてきてもらうにはどうしたらいいか。本人が一番考えたんでしょう。卒業の時、武部君は言っていました。『人への思いやりを持つことがどれだけ大事かを学べた』と」(山岸)

 医師を志すきっかけになった原体験がある。小3の時、30代後半の父が脳卒中で倒れたのだ。

「人生のあり方が反転した出来事だった」

 ある晩、居間で食事中に電話が鳴った。母親が電話を切ると、平然を装いつつも血相を変えて出かけていく。翌日から半年近く、母に代わって祖母や親戚が来た。しばらくして、面会謝絶の札が付いた父の病室で、身動きもしない別人となった父の姿を見た。泊まり込みで看病していた母は泣き崩れ、こう言った。

「亡くなる確率は9割だって。ごめんね」

 多感な時期の子どもには、受け止めきれない事実だった。今でも思う。もし、父が亡くなっていたら、進学さえ出来なかったかもしれないと。

 幸い父は、回復する1割の側に残り、大きな後遺症もなく社会復帰が出来た。それだけに、医療の威力を感じた。同時に、医療で捕捉しきれない「生活の問題」にも目が向いた。

暮らしとモノ班 for promotion
「更年期退職」が社会問題に。快適に過ごすためのフェムテックグッズ
次のページ