共演経験も多く、私生活でも親交の深い俳優、川瀬陽太(49)は、渋川の魅力をこう語る。
「彼がそこに立ってるだけで、見る方は勝手に何かを想像しちゃう。それは『パリ、テキサス』のハリー・ディーン・スタントンみたいな感じというか、犬っころみたいな感じというか。物寂しい、寄る辺ないふうにも見えるし、陽気にも見える。でも、なんかウソがない感じがするんです。あの画が欲しくて監督たちは彼を呼んでる気がする」
渋川は日本のへそとして知られるのどかな町、群馬県渋川市に生まれた。贈答品販売会社を経営する傍ら、家の裏にある畑で桃や梨を育てる寡黙な父、英雄(79)と、社交的で明るい母、晃代(75)の長男として育ち、少年時代はサッカーに明け暮れた。1学年上は全国大会に出場した強豪チームで、試合に負けるとビンタが飛んでくる。練習はきつかったが、「始めたからには」と中学3年まで続け、そのあとでどハマりしたのが音楽だ。
「一つ上の親戚の兄ちゃんが体育館でバンドやってるのを見て、かっこいいな~って。その兄ちゃんがやってたのがドラムだったんです」
同居する祖母にドラムセットを買ってもらうと、納屋にアンプを持ち込み、たたき続ける毎日。
「周りに家もないから好きなだけたたけた。めちゃくちゃ音出してても全然大丈夫だから」
県立高校に入ると、ゴルフ場のキャディーのバイトをしながら、市内の音楽スタジオに入り浸った。スタジオの近くには幼馴染みが通う工業高校があり、そこは仲間の溜まり場でもあった。
高校の同級生で、ZIGGYのコピーバンド仲間でもあった藤井重信(45)は振り返る。
「めちゃくちゃうまかったですよ。初めて聞いた曲とか、せいぜい2回くらいしか聞いてない曲でもすぐに合わせてくる。すげえなって。いくつかバンドも掛け持ちしてやってたんじゃないかな」
そこで出会ったのがロカビリーだ。渋川は言う。
「工業高校の連中がやってて。昔のギター使ってたり、ウッドベースをこうやって(弦を指に引っ掛けて弾くマネをして)弾く、スラップのカチカチっていう音もすごいかっこよかったんですよ」
一番ハマったのはストレイ・キャッツ。80年代に起きたネオロカビリーブームの火付け役で、全国の不良から圧倒的な支持を受けたバンドだ。
「単純にビジュアルもかっこよかった。リーゼントでベース弾いて、入れ墨して……それで俺も墨を入れたいと思うようになった」
プロのドラマーを夢見て、東京の専門学校に行きたいと申し出た息子に、両親は反対しなかった。
■茅場町のホームで出会い「あなたの写真撮らせて」
東京に出ると、ますますロカビリー熱に拍車がかかる。ずっと求めていた遊び場があったからだ。新宿の花園神社の脇にあったクラブ、ミロスガレージでは、毎週ロカビリーナイトやロンドンナイトが開催されていた。渋川はロカビリーファッションに身を包み、くせっ毛をむりやりポマードで固めたリーゼントで、足しげく通った。
「周りは怖い人が多かった。俺が震源地になるようなことはなかったけど、ライブに行っても喧嘩ばっかりで。でも、怖いけどみんなかっこいいんですよ。そんな人たちに遊びを教えてもらって」