「新潟ラーメンの進出に向けて日々動き続けています。“なんちゃって”では絶対に作りたくないので、しっかりと準備をしていきたいと思っています」(松本さん)
日本国内においては、背脂煮干ラーメンは北海道から大阪までしか広がっていないという。松本さんの言葉を借りれば「背脂の関所」を取り払い、全国・全世界に新潟ラーメンの魅力を広げていきたい。それが松本さんの夢だという。これからの動きにも大いに期待したい。
そんな松本さんの愛するラーメンは、豚骨一筋で頂点を極めた店主が新たに紡ぎ出した“第二のラーメン”だった。
■「味に品がない」と言われても、諦めなかった
「博多長浜ラーメン 田中商店」の本店は足立区一ツ家。都内ではあるものの、つくばエクスプレスの六町駅から徒歩15分とやや不便な場所にある。しかし、東京で豚骨ラーメンの名店と聞かれれば、このお店の名前を口にする人はかなり多いだろう。筆者も何度も訪れているが、夕方6時から朝4時までの営業時間の中で、行列ができていない日を一度も目にしたことがない。創業は2000年で来年には20周年を迎えるが、まったく衰えを見せない人気には驚くばかりである。
店主の田中剛さん(49)は、津軽半島の最北端に位置する青森県の三厩村で生まれた。家の目の前には海が広がっていて、父は漁業を営んでいた。昔から母の料理の手伝いが好きだった田中さんは、将来は料理を仕事にしたいと考えていた。ラーメンは昔から好きで、マルちゃんのインスタントラーメンから始まり、食堂や蕎麦屋でもラーメンをよく食べていた。当時地元にはラーメン専門店といわれるお店は5、6店舗しかなく、あくまで食堂の一つのメニューという雰囲気であった。
料理人を志して18歳で上京。働き始めた居酒屋が中華料理専門店を始めることになり、田中さんも中華の道へ進むことになる。会社の研修で当時銀座にあった「四川飯店」に行き、日本でも指折りの料理人の手さばきを目の当たりにする。本物の料理人の仕事を見て、自分とは全くレベルが違うことを思い知る。しばらくは恥ずかしくて包丁が持てなかったという。
「ずっと『お前の料理はまかないとしては旨いが、味に品がない』と言われてきました。プロの仕事を見て、本当にすごいなと心の底から思ったんです」(田中さん)
それから4年後、田中さんは家庭の事情で青森に戻ることになる。だが、料理が好きで諦めきれない。ある日、自分の料理がまかないとしては褒められたことを思い出す。本格中華は厳しいが、庶民の食べ物ならばできるかもしれない。そう考えた。
2カ月ほどで再び上京し、昼はとび職、夜は焼き鳥屋でのアルバイトをしながら、自分が活躍できる場所を探り始めた。しばらくして、喫茶店を経営している社長に出会う。その社長に自分の夢を話すと、思わぬ提案を受けることになる。