「開店のお金は出すから、儲けを折半してラーメン屋をやろう」

 お店の現場は田中さんに任せてくれるという。昔からラーメンは好きで、中華の経験もある。これはやれるかもしれないと考え、引き受けることになった。

 しかし、決まったはいいが、肝心のラーメンが出来上がらなかった。「ホープ軒」や「香月」などで一世を風靡していた背脂系を試すも、箸にも棒にもかからない。その後もしばらくは作りたいラーメンすら定まらなかったが、当時話題だった「赤のれん」「なんでんかんでん」を食べたとき、田中さんの心は決まった。

「豚骨スープの濃度に衝撃を受けました。まだ博多ラーメンも広まっておらず、それまで食べたことのないラーメンだったんです。中毒性がものすごくて、これを作りたいと本能的に思いました」(田中さん)

 それから、土日はラーメンの試作に没頭。試行錯誤の末、ようやくラーメンが完成したときには、構想から2年半が経っていた。

店主の田中剛さん。「自分も歳をとって、常連の皆さんの年齢も上がってきた」と語る(筆者撮影)
店主の田中剛さん。「自分も歳をとって、常連の皆さんの年齢も上がってきた」と語る(筆者撮影)

 こうして1995年、足立区に「博多長浜ラーメン 金太郎」をオープンした。車通りの多い環七沿いではあったが駅から遠く、通りすがりの客が期待できるような立地ではなかった。しかし、田中さんはそれでいいと思っていた。わざわざ食べに来てくれる人が集まる、エキサイティングな空間を作りたかったのだという。

 しかし、店をオープンしたものの、味が安定しない日が続いた。スープに使うのは豚骨のみ。寸胴4本がいっぱいになる程の量だ。ブレを直したいという気持ちはあるのだが、どう調整すればいいかが全くわからない。3カ月間赤字が続き、パートナーの社長からも閉店を提案されてしまう。

 しかし、自分の納得できる味で勝負するまで諦めたくないと、半年間給料なしでいいから存続させてほしいとお願いする。年中無休で朝4時まで営業し、何とか売り上げを稼いでいった。それでも、お客さんは1日40人ほどしか来なかった。

 スープの味がなかなか安定しない一方で、タレは2年間で30回は変えてきた。3年ほど経ったある日、丼を温めれば味にキレが出ることに気付く。当時はインターネットも普及しておらず、情報も少なかった。一つずつ自分で試して解決するしかなかった。

 味が安定するとようやく行列ができ始めた。今では当たり前の「替玉」は当時はなかなか注文してもらえなかったが、ご飯ものは出さずに「替玉」のファンを増やしていくことに注力した。こうして一人ずつファンの心を掴んでいった。

 時間をかけて、何とか「金太郎」を繁盛店に成長させた。店舗展開を始め、従業員も増えたタイミングで独立を決意する。今度は自分一人の力で店づくりにチャレンジしよう、そう考えたのだ。

 こうして2000年10月「博多長浜ラーメン 田中商店」をオープンする。ただ、ここでもラーメン作りには苦労した。金太郎ではスープに深みを出すために、一度作ったスープに継ぎ足し続ける“呼び戻し製法”をとっていた。だが、新店ではそうはいかない。イチから作り直す必要があった。

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お客の8割は常連に