ワールドカップ出場決定、オリンピック開催国枠決定と、バスケットボール界には追い風が吹く。2026年には1万~1万5千人規模のアリーナが10カ所はできていることを想定している(撮影/大野洋介)
ワールドカップ出場決定、オリンピック開催国枠決定と、バスケットボール界には追い風が吹く。2026年には1万~1万5千人規模のアリーナが10カ所はできていることを想定している(撮影/大野洋介)

 カンフル剤を打ち込まれた吉村は、取締役会でクラブチーム経営に関するサポートを頼んだ。それを受けて社員たちがチケット販売やスポンサー獲得により一層動いた結果、翌年の売り上げは前年度の2倍近くに伸びた。

 三菱財団常務理事の渡邉肇(63)は、三菱銀行(当時)で大河の3期先輩だ。新卒で二つの支店を回った大河が31歳で異動した本店企画部の上司だった。企画部は経営陣の直轄部である。銀行の経営に関わる調査を行い、幹部に提案をする。長期的な視点に立って、論理的に裏付けた提案が求められる。企画部には立場にかかわらず議論するリベラルな風土があった。平成に足を踏み入れた当時、大河は渡邉のもと予算グループというセクションで銀行業務の原価管理を担当していた。ひとつひとつの業務をコスト試算したのは、1989年に三菱銀行がニューヨーク証券取引所に上場したため、アメリカ流のコスト管理を導入したという背景がある。国内の都市銀行では新しい取り組みだったと渡邉は話した。

「いわゆる頭のいい人はたくさんいますが、その中でも彼は論理に優れていました。ただ、それだけではない。我々は現場に新しい方針や施策を提案します。相手によっては、否定された、と思われることもある。彼は論拠を説明しながら同時に相手の意見を辛抱強く聞く人でした。論理と共感性の二つにおいて彼に助けられました」

 自ら考え、論理を組み立てる習慣は、京都の洛星中高バスケットボール部に始まっている。カトリックの進学校で校風はリベラル、体育会系の圧力は皆無。顧問の国語教師は競技経験がないため、アメリカから指導書を取り寄せ研究するような人だった。おのずと生徒同士でも戦術を考えることになる。その結果、中3の夏に全国大会で準決勝まで勝ち進んだ。

 本店企画部勤務のあと、95年、大河は発足3年目のJリーグに総務部長として出向し、川淵と出会った。ベンチャービジネスに飛び込み、川淵の強烈なリーダーシップを間近に見た。

 40代で関東圏の支店長になると、顧客に資産や家族の状況に合わせた運用を提案するコンサル型営業を推進し、鎌倉支店長、町田支店長を務めたときは好成績で表彰を受けた。

 外資系コンサルの提案で、本店企画部が拠点支店の支店長に周辺支店の営業行員の人事権を掌握させる制度を導入したときのことである。人事権と営業管理が一致しない制度は現場に合わない。大河が異論を唱えたところ、逆に制度を普及させよと企画部に呼び戻されてしまった。だが大河は2年ほどかけて説得し、制度は廃止となった。

●30歳のある真夜中に突然心臓に激痛が走る

 巨大組織を器用に泳ぐタイプではないが、退職時の肩書は理事。役員になる直前のポストらしい。

 ところが。

「本人はずいぶんと我慢をしたはずです」

 京大法学部の同級生でJXTGホールディングス取締役の加藤仁(61)はこう慮った。加藤が指摘したのは、大河の病気である。

 30歳のある真夜中、心臓を金づちで殴られるような激しい痛みが30分ほど続き、脂汗が流れ、手足は氷のように冷たくなった。死ぬかもしれないと思った。心臓冠動脈が痙攣する異型狭心症だった。ときを選ばず症状は起きる。重要な会議に出られなかった際、ある上司は「病気のヤツは要らない」と言い捨てた。

 大河に病気の影を感じた記憶はないと渡邉は言うが、人知れず45歳まで続いていた。加藤は仕事帰りに一緒に飲んだとき、「俺、こんなん持ち歩いてるんや」と、大河が胸ポケットから薬の小びんを取り出したことが忘れられない。

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