コンサルティングの仕事で「地域の一番星」企業が次々に生まれた。学びの「型」に落とし込む、教育の意義を改めて感じた。だが、それでも産地の衰退は止まらなかった。気づいたのは、地域そのものを盛り上げていく必要性だった。このとき、実は課題を抱えていた地元・奈良に目が向く。さらにもうひとつのパズルのピースと出会う。サッカーJFL、奈良クラブ。現在、J3の下にいる。
「学びに『型』があるのは、サッカーも同じです。勉強も仕事もスポーツも『型』を知らないから、みんな苦労する。ならば、新しい教育でサッカーを強くして、教育都市としての新しい奈良を世界に発信していくことができるんじゃないか、と」
地域から元気にするという発想。プロジェクトは10年計画。大きな話題が作れるサッカーで、日本中をあっと言わせ、奈良のイメージを変える。
「60億円の会社から2億円の会社の社長への転職。ほとんどの人には、意味が分からないでしょうね(笑)。でも、後になれば、そういうことだったのか、とわかってもらえると思います」
社長を降りると伝えたとき、母は「いいわね、次は何する? 楽しそう」と語ったと中川は笑う。
「でも、今回もうまくいったら、また次にバトンタッチします」
中川の凄みは、小さな世界でのカリスマで終わろうとしないところにある。自分が培ったものは、すべて社員に、業界にさらけ出してしまう。本来の目的や本質に合致しないなら、地位にもお金にも汲々としない。それができるのは、自身の価値が確立できているからだ。苦しいところにこそ出ていき、自分の力で誰かの役に立つこと。そのステージは、さらに大きくなった。新しい挑戦は、3月17日、JFL開幕から始まる。(文中敬称略)
■中川政七(なかがわ・まさしち)
1974年/奈良県に生まれる。本名は中川淳。帝塚山小学校時代、1年から3年まで担任を務めた現校長の池田節は語る。「おとなしい子どもでした。でも、高学年でサッカーを始めて、キーパーを務めて見事に結果を出した。最後は彼がPKを止めたんです。この経験が彼を変えたんだと思います」。サッカーに夢中になる一方、厳しい塾に通い、東大寺学園へ。中高の6年間は素晴らしい友に出会え、楽しい時代だったと語る。
94年/京都大学法学部に入学。授業には数えるほどしか出なかった。サッカーサークルを自分で立ち上げて、活動。一方で司法試験を目指すも挫折。両親からは何も言われなかった。
2000年/富士通入社。「仕事というものの基本、会社とはなんぞや、を学ぶことができました」(中川)
02年/中川政七商店入社。肩書なし。年収は富士通時代より下がった。03年、新ブランド「粋更kisara」発表。06年、粋更kisara表参道ヒルズ店開店。以後、店舗展開を加速させる。
08年/代表取締役社長就任。「花ふきん」がグッドデザイン金賞受賞。初の著書『奈良の小さな会社が表参道ヒルズに店を出すまでの道のり。』刊行。
09年/コンサルティング業務開始。
10年/新ブランド「中川政七商店」発表。奈良新社屋へ移転。
15年/ポーター賞受賞。東京事務所開設。
16年/創業300周年。第13代中川政七を襲名。
17年/日本工芸産地協会発足。
18年/代表取締役社長を退任、代表取締役会長に。「本当は代表権も外したかったんですが、それをやると大変な手続きになるので、仕方なくて」。コンサルティング部門や関連会社の茶道ブランド「茶論」などのほかは、すべて後任に委ねている。奈良クラブ代表取締役社長に就任。旧知の友人であり、奈良クラブのクリエイティブディレクターとなったブックディレクターの幅允孝は言う。「ずっとプロ経営者になると言い続けていました。その彼が次に選んだ場所がフットボールクラブだっただけだと思います。ただ、サッカーは本当に好きですけどね」
■上阪徹
1966年、兵庫県出身。早稲田大学卒。著書に『社長の「まわり」の仕事術』『JALの心づかい』『マイクロソフト 再始動する最強企業』『これなら書ける!大人の文章講座』他多数。
※AERA 2019年3月25日号
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