父が仕切っていた茶道具の部門と、専務の母が商品企画を担当していた和雑貨の部門があった。売り上げの7割を占めていた茶道具は、父が作った事業だった。ここに籍を置いて修業が始まったが、週に1度は赤字だった和雑貨部門にも顔を出した。中川はやがて違和感を持つ。生産数量も仕掛かり中の商品もはっきりしない。何を聞いても、誰からも納得のいく答えが返ってこない。これはまずい、と和雑貨部門への異動を願い出た。
「やるならちゃんとやりたかった。例えば、家が常にきれいなら、きれいにするんです。当たり前のレベルがどこにあるか、というのは、ものすごく大切なことです」
こうしたほうがいい、と伝えると「しゃあけど今までこうやってきたし」というフレーズが毎回、戻ってきた。何度も繰り返しているうちに、
「そこまで頑張って仕事をする気はないから辞める」となった。1年、2年と続々と退職者が出た。
「しんどかったのは、人が採れないことでした。父からは『奈良の田舎の中小企業に優秀な人間なんか来よらへん。その中でどうするか考えろ』と言われましたけど、このときはつらかった」
どうすれば優秀な人材が来てくれるのか。それは後に上場を考える最大の理由になっていく。
後に新たなブランドを作り、出店を加速させ、他社のコンサルティングも手がけることになる中川だが、企業でみっちり修業したわけでもビジネススクールに行ったわけでもない。なぜ、奈良の小さな老舗企業が、これほど短期間で成功したのか。それは素人なりに、そもそもどうあるべきか、自分で考え抜いたからだと中川は語る。
「これは本気で思っていますけど、中高生時代のボードゲームと同じだと思うんです。どうやったら勝てるか。戦略を考えないと勝てない。ゲームの構造をしっかり見抜く必要があるんです」
●「ようできた息子やなぁ」亡くなる前に父が語った
ヒントは身近にあった。例えば、大学時代からずっと好きで読み続けていたモノ雑誌。単純に買い物をするための情報源だったが、本質が見えた。掲載されていたのは、商品についてのセールストークがあるモノだけだった。どんなモノなら、どんな会社なら紹介したくなるか。その視点でモノづくりを進めればいい。なのに、こういう商品開発がまったくできていなかった。やれば、ちゃんと売れる。そのやり方を、社員と共有していった。
モノを作ったら、卸して小売店に売ってもらうのが当時の常識だったが、それではセールストークを伝えてもらえない。だったら、自分たちで店舗を作ったらどうか。当たり前の概念にとらわれず、自分の頭で考えたら、そういう答えが出た。中川は、伝統工芸をビジネスにしていく成功体験を、自ら次々と積み上げていく。
「やってはいけないのは、まあいっか、で済ませてしまうこと。この瞬間、経営者として終わる」
中川政七商店のクリエイティブディレクター、水野学(46)は中川の力を早くから見抜いていた。
「出会った当時はまだブランドが二つしかない頃でしたが、そのくらいの売り上げで終わる人ではないな、とすぐにわかりました」
だから、ショッピングバッグのデザイン依頼にやってきた中川に、「会社の歴史という貴重な財産を生かしていないのはあまりにもったいない」と経営に踏み込んで指摘した。新しいブランド「中川政七商店」ができるのは、その後のことだ。水野は初めて会社と月額契約を結び、重要なビジネスパートナーとなる。中川の快進撃が始まる。