今は奈良クラブ社長として、取材を受ける。会社や個人の宣伝のためにサッカークラブの社長になったのではまったくない。あくまで経営をするため、そして地域を大きく盛り上げるモデルのひとつにするためだ(撮影/伊ケ崎忍)

 だが、売り上げが急激に伸び始めると、中川は再び考えるようになった。何がしたいのか。何ができるのか。何をすべきか。こうしてビジョン「日本の工芸を元気にする!」が生まれ、そしてコンサルティング事業が始まる。自分で考えたビジネス再生の「型」を使えば、他の企業もうまくいくと確信していた。実際、波佐見焼の産地問屋のマルヒロ、燕三条の包丁メーカーのタダフサなど、成功企業が次々に生まれた。

 08年、社長を引き継ぐ際、父は言った。

「何ものにもとらわれるな、伝統の麻もどうでもいい。商売を続けることを第一に考えろ」

 なぜこの会社が300年も生き抜いたのか。それは、歴代当主たちがその時代を生き抜くために自らの頭で考え、変化を重ねてきたからだと知った。自分など、常識の範囲内なのではないか、とさえ思った。だが、中川にも常識破りの決断がひとつある。16年、2年にわたって準備を進めていた上場を取りやめたのだ。株好きの父が心から喜んだ取り組みだったが、揺るがなかった。

「上場の最大の目的は優秀な人材の採用でした。でも、それはもう実現していたんです。そうなると、デメリットのほうが大きくなった」

 上場すれば、中川家には巨額の資産が得られた。しかし、会社の利益をあくまで優先した。

「親孝行はできませんでしたけど」

 父はその後まもなく、この世を去る。亡くなる前、母みよ子に、しみじみこう語ったという。

「ほんま、ようできた息子やなぁ」

 妻の前で息子を褒めたのは、これが初めてだった。

 会社は15年で約5倍の規模になったが、規模拡大はマストではなかったと中川は語る。

「利益を至上命令にすることもない。そういうルール設定もあると思いますが、僕には楽しくない。勝ち筋だとしても、安売りにも興味がない。一度しかない人生ですから、どういうゲームに参加するか、どういうルールで戦うのかは、自分が正しいと思える、楽しいと思える、納得できるものをちゃんと考えて、選ばないといけない」

 社長の千石には、忘れられないシーンがある。コンサルティングした地方の会社十数社の商品を揃えた店「大日本市」が伊勢丹新宿本店に出店を果たした。メーカーの社長の一人は、まさかここで商品を販売できるとは、と感激した。業界でもシンデレラストーリーと言われた。ところが1年ほどして、千石は中川とともに呼び出される。百貨店側から、納得できない要望がやってきた。幾度かの話し合いの末、中川はなんと退店を申し出てしまう。千石は、その場に同席していた。

「あの百貨店を自分たちから出て行ったの? ありえない!と周囲からは言われました。でも、ビジョンと合致しないのであれば、こういう決断もするのか、と驚きました。本当に売り上げよりも上位概念があるんだ、と。衝撃でした」

●地域の盛り上がりが重要 奈良クラブの社長に就任

 中川は、社員に対しても、取引先に対しても、対等でありたい、と考えてきた。社員はここを選んでくれている。川上のメーカーにもむちゃを強いない。中川政七商店を「上品な商売」と評した、中川と長く親交のある松岡正剛(75)はこう語る。

「自分たちだけ大きくなろうとするのではなく、全国の小さな集団に注目して支援して、みんなでビジネスにしていく。こんなことは誰もやっていなかった。彼の中に、日本というものが潜んでいるんだと思う。根本にあるのは、日本および日本人をなんとかしようと思ってくれている気持ちです。だから、応援したくなるんです」

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