
この言葉がずっと心のどこかにあって生きてきた、と中川は語る。両親は、わが子に自分で考えさせる道を選んだのだ。以降、本当に何も言わなかった。中高一貫の男子校で伸び伸びと過ごす。
「ゲームばかりやってましたけど(笑)。戦略系シミュレーションゲームとボードゲーム。腹の読み合い、探り合い、駆け引きみたいなところが大好きで。勝率、高かったですよ(笑)」
一方で学校成績は低迷。180人中150~160番が定位置だった。大学受験が迫り、ようやく腰を上げる。今も記憶に残るのが、京大生の家庭教師だ。まずは京大がいかに楽しいかという動機付けから始まり、勉強も京大対策一本に絞った。
「まさに仕事のやり方にも通じるところがありました。学びの『型』のようなものの原体験です」
一方で母のみよ子は、自分で考える中川らしいエピソードを覚えている。
「現役で落ちたとき、高校に点数を聞きに行った、と先生に聞きました。そんな子はめったにいない、と。1年の戦略を練るためだったんでしょう」
中川は自らやるべき戦略を考え、1浪して大学に合格。だが、ほとんど学校には行かなかった。
大学では、自分でしっかり考えないとどうなるか、という厳しい洗礼を浴びている。一緒に京大に進んだ友人が司法試験を受けるので、自分も受けることにしたのだ。待っていたのは、挫折だった。大学には結局、6年いた。中川はいう。
「ダメージは大きかった。明らかな負け。取り返せない失敗。負けや失敗から学ぶことがあると言いますが、僕はまったく思わないです。負けて学んだことは、負けたら何もないということと、絶対に二度と負けちゃいけないということです」
1浪2留の就職活動は厳しかった。なんとか拾ってもらったのが富士通。友人たちから何年も出遅れたことに焦り、それまで週刊誌6誌、月刊誌2誌読んでいた漫画を全部やめた。ビジネス書を読もうと決めて、猛烈にビジネスの勉強を始めた。仕事はソリューションSE。当時の上司で元執行役員の菊田志向(60)は、中川をよく覚えている。
「とても優秀でした。しかも、気遣いもできる。課長に昇進した女性に、サプライズで花束を贈ったり。まわりを楽しませることができる一方で、冷静で客観的なところもあって。辞めていった中で、最も残念だった社員です」
成績も良かったが、中川は2年目に退職を申し出る。自分で考えて気づいた。当時は年功序列が根強く残っていた。成果を出しても、見合うポジションが得られるのはかなり先になる。
「ここにいても仕方がないな、と思って。決めたら我慢がきかないんです。そもそも我慢がいいとも思わない。決めたらすぐ動いてしまいます」
●家業へ転職するものの次々と退職者が出る
結果がすぐに自分に反映される小さな会社を考えた。このとき、だったら家業の中川政七商店に入ればいいのではないか、と思いついた。深い考えはなかった。父から継げと言われたことは一度もない。母によれば、「継ぎたいと言われるような会社にしたい。男同士の勝負や」と巌雄は語っていたという。となれば、してやったり、ではあるが、父は入社に反対する。中川はいう。
「中小企業は大企業とは違う。これまでは大企業の看板で仕事をしていただけで、お前の力ちゃう。富士通の売り上げと利益を言ってみろ。ほら見ろ、言えない。転職はまかりならん、と言われました。でも、ひっこみがつかないので、給料なしでも入れてください、と頭を下げました」