比喩表現などについても「相変わらず素晴らしかった」と言う。例えば子易さんの妻が姿を消した後のベッドに葱(ねぎ)が2本置かれていた描写。斎藤さんは「その意味を追究してもしようがない。それ以前に」としたうえでこう話す。
「ベッドの中に葱が2本あるというのは、すごく生々しく視覚的なイメージですよね。えたいのしれない失踪(しっそう)というものを強く印象付ける、忘れがたいシーンです。70代を迎えてなお、これほどにみずみずしい描写ができるのかと感心しました」
■深層意識と意識の往還
忘れがたい描写は他にもある。少年が主人公の耳たぶをかむシーンだ。なぜ耳たぶを? 読者の間でも議論されるところだろう。斎藤さんはこう話す。
「あれが耳ではなく他の器官だったらどうか。見つめ合ったりキスをしたりという性的な交流ならありきたり。鼻をかじるだったらコメディーにしかなりません。他の器官だったらああいった印象にはつながらない。口と耳というセットは『声』の媒介を象徴している気もします」
村上春樹は今後、どんな作品を生み出していくのか。斎藤さんはこう言う。
「コロナ禍の引きこもり生活は、村上さんが自分の井戸に下りていく作業を加速し、容易にした部分があったかも。彼は深層意識の存在を信じていて、深層意識と意識の往還によって作品世界を深めていく。そのために自分の『地下室』に下りていく訓練は繰り返ししているはずです。老境を迎えて深層意識がますます熟成していくことを考えると、今後の新たな作品についても期待できると思っています」
(編集部・小長光哲郎)
※AERA 2023年5月1-8日合併号より抜粋