『街とその不確かな壁』/4月13日に発売された村上春樹の長編小説『街とその不確かな壁』。デビュー翌年の1980年に文芸誌で発表した中編『街と、その不確かな壁』を書き直したものだ(撮影/写真映像部・佐藤創紀)
『街とその不確かな壁』/4月13日に発売された村上春樹の長編小説『街とその不確かな壁』。デビュー翌年の1980年に文芸誌で発表した中編『街と、その不確かな壁』を書き直したものだ(撮影/写真映像部・佐藤創紀)

 比喩表現などについても「相変わらず素晴らしかった」と言う。例えば子易さんの妻が姿を消した後のベッドに葱(ねぎ)が2本置かれていた描写。斎藤さんは「その意味を追究してもしようがない。それ以前に」としたうえでこう話す。

「ベッドの中に葱が2本あるというのは、すごく生々しく視覚的なイメージですよね。えたいのしれない失踪(しっそう)というものを強く印象付ける、忘れがたいシーンです。70代を迎えてなお、これほどにみずみずしい描写ができるのかと感心しました」

■深層意識と意識の往還

 忘れがたい描写は他にもある。少年が主人公の耳たぶをかむシーンだ。なぜ耳たぶを? 読者の間でも議論されるところだろう。斎藤さんはこう話す。

「あれが耳ではなく他の器官だったらどうか。見つめ合ったりキスをしたりという性的な交流ならありきたり。鼻をかじるだったらコメディーにしかなりません。他の器官だったらああいった印象にはつながらない。口と耳というセットは『声』の媒介を象徴している気もします」

 村上春樹は今後、どんな作品を生み出していくのか。斎藤さんはこう言う。

「コロナ禍の引きこもり生活は、村上さんが自分の井戸に下りていく作業を加速し、容易にした部分があったかも。彼は深層意識の存在を信じていて、深層意識と意識の往還によって作品世界を深めていく。そのために自分の『地下室』に下りていく訓練は繰り返ししているはずです。老境を迎えて深層意識がますます熟成していくことを考えると、今後の新たな作品についても期待できると思っています」

(編集部・小長光哲郎)

AERA 2023年5月1-8日合併号より抜粋

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小長光哲郎

小長光哲郎

ライター/AERA編集部 1966年、福岡県北九州市生まれ。月刊誌などの編集者を経て、2019年よりAERA編集部

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