
戦後80年、日本社会は大きく変化した。性別や働き方などさまざまな面で多様性を尊重する動きが広がっている。30歳のときに性別適合手術を受けたカルーセル麻紀さんは何を思うのか。AERA 2025年8月11日-8月18日合併号より。
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昭和17(1942)年11月、北海道の釧路に生まれました。戦争が終わったのが2歳8カ月のとき。ですから、戦争の記憶はないんです。でも、戦後の記憶はものすごく持っています。
家族は両親と、あたしを入れて9人きょうだい。総勢11人が、2間の長屋に住んでました。水道はなかったし、電気はしょっちゅう停電。だから、うちの中はロウソクがいっぱい。みんな貧乏な時代。口に入るもんは、何でも食べました。お味噌汁の出汁をお魚で取るでしょ。取ったあとのお魚は、あたしも食べたいから、猫ととりあい。
LGBTQなんて言葉はありませんでした。あたし、「僕」とか「俺」って言えなかったんです。子どものころ「アチシ」って言ってたの。それで、「男のくせに変だな」って言われて。ついたあだ名が「成りかけ」。女の「成りかけ」。小学校の間ずっと「成りかけ」でしたよ。いじめはありました。でも、小学校でも中学校でも番長がいて、いじめられていると、「おい、テッコに手を出すな」って守ってくれた。本名の徹男から「テッコ」って、そう呼ばれてました。その時のあたしは、情婦気取りですよ。「ふん」って。その頃から、そういう長けた術は持ってたんです。
美輪明宏さんの存在を知ったのは中学生のころ。「あたしと同じ人いるんだわ」と思って。調べたら、東京にはいっぱいゲイバーがあるって知って。「生きていく道はこれしかない」と思ったわけ。