写真:本人提供
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最初は「見せ物」だった

 高校に入ったけど、アルバイトでためたお金を持って家を出たのが15歳。東京に行くつもりが札幌に着いて、そこのゲイバーに勤めました。それから青森、東京、愛媛、福岡、愛知、大阪と。男と別れたら、どこかへ行き。もめたら、またどこかへ。「フーテンの麻紀」でしたね。

 芸能界のデビューは20歳くらい。テレビに出始めたころは「見せ物」です。それは自分でもわかってて、名前と顔を売るために何でもやりました。でも、飽きっぽいし、すぐにけんかはするし。テレビで「オカマ」って言われて、生放送中に机をひっくり返して帰ったこともあります。「てめえこの野郎!」って。自分で闘ってきました。

 あたしはあたし、あなたはあなた──。これが座右の銘。

 モロッコに行って、性別適合手術を受けたのが30歳。別に女になりたかったわけじゃないの。ダンサーとして、ストリッパーとしてやりたかったんです。

 あたしのことを女だと思って、「結婚してくれ」って人が何人かいて。「あたし、男だけど」って言ったら、「だますなら死ぬまでだましてほしかった」って。そういう男が3人くらいいました。

 戦後80年はあっという間。

 いい時に生まれたと思ってます。戦争を知らないし、自由に生きて、好きなことを言えて。5年前に脳梗塞で救急搬送されたけど、今もたばこ1日30本は吸います。

 それにしても、女装家がテレビに出られるなんて想像してなかったです。LGBTQとか事実婚とか、女性もキャリアを積め、いろんな生き方が認められるようになったのは、本当にいい時代だと思います。生まれ変わるならまた「あたし」で生まれたい。だって、悔いがないですから。この人生に。

(AERA構成/編集部・野村昌二)

AERA 2025年8月11日-8月18日合併号

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