作品の前で何度も足を止め、建物を出た時は予定の時刻を過ぎていた。鑑賞者は私一人。他の観光客は、その建物の前を通り過ぎ、世界遺産の町の散策に忙しかった。
結局私は、その町でエゴン・シーレの絵に会っただけだった。それも彼が少年時代にここを訪れた頃に描いた絵で、不思議なことに町の絵はほとんどなく、自画像や、のちに結婚したモデルのエディトなど人物画が多かった気がする。私は有名な「死と乙女」を探したが、出会うことはなかった。
シューベルトの弦楽四重奏曲「死と乙女」は愛してやまぬ曲だ。死神が死を怖れる乙女に優しく語りかける。「怖くはない」と。
そして今回の上野の展覧会。私はここでも名作「死と乙女」に会うことがなかった。
下重暁子(しもじゅう・あきこ)/作家。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業後、NHKに入局。民放キャスターを経て、文筆活動に入る。この連載に加筆した『死は最後で最大のときめき』(朝日新書)が発売中
※週刊朝日 2023年4月28日号