自分の人生くらい、ちょっとハードに汚してみたくなる

 十四歳くらいまでは割と箱入りの、白くて花の刺繍(ししゅう)があるブラウスのような女の子だったのに変だな、と思うことはありますが、若い私はアイロンがけしたダサい刺繍のブラウスよりも、気合の入ったダメージデニムになりたかったのだろうし、十代二十代の頃というのはあえて自分の身体を粗末に扱って見せることで、自分の心と身体が間違いなく自分のものであるという確認をしていたのかもしれないと今になって思います。自分の身体や人生に対する自分なりの愛し方って千差万別で、高級そうな男に選ばれるのも自由、顔まで刺青をいれるのも、くだらない男にうつつを抜かして貯金が底をつくのも、極論を言えば自由なわけです。

 これが他者や公共物の愛し方となると話は別で、いくら自分なりの愛し方でも富士山で勝手に野焼きしたり、皇居にグラフィティを施したりすれば問題になるし、これが愛のカタチだとか言って嫌がる相手を過度に束縛したりDVしたりする罪は大きい。だからこそ、自分のデニムや自分の人生くらい、ちょっとハードに汚してみたくなるものです。今になって後悔していることがないかと言えば、あの男とあの男とあの男には近づくべきではなかったし、あの仕事とあの仕事はしなくてもよかっただろうと思うし、後悔だらけですが、後悔のない人生はまっさらなTシャツみたいでちょっと退屈な気もします。

 他人に「自分を大切にしなよ」と口走ってしまう人の多くが、自分と違う価値観での人生の愛で方、祝福の仕方が見ていて不快だとか、不気味だとかいう理由でひるんでいるのだと思います。それはイスラム教徒に「ベーコン食べないなんて人生損してる」とか言うのと同じようなもので余計なお世話なのですが、そういうくだらない助言と善意に混じって、時々は本当に大切に思ってくれている人の言葉というのもあります。ただ、本当にこちらのことを大切に思ってくれているからといって、まったく同じものを信じて同じものを軽蔑しているわけではないので、ありがたく聞いて、感謝した上で、心が痛くとも時には無視すべきだと個人的には思っています。

次のページ 実りある人生じゃないけど…