当時はファッションにも格差があり、金額に加えて憧れが伴った。「格差」は「文化」と同義語だった。

 小林麻美は大森の生まれである。そこはかつて料亭のある花街で、歌舞伎の演目で有名な鈴ヶ森刑場跡も。京急の大森海岸駅があり、第一京浜ぎりぎりまで海だった。朝帰りと家出を繰り返した麻美はたまに家に帰ると「潮の香りがプーンとした」という。

 大森の商店街のレコード店から潮の香りとともに流れてきたのがいしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」だったと麻美は言った。

 橋本淳はカンヌの風景を想像して作詞したというが、麻美から大森のいわれを聴いた僕にとって、鼻にかかった、甘えるようないしだあゆみの歌声はどこか芸者の口ずさむ小唄にも似ていると感じられた。

 麻美はユーミンのプロデュースで「雨音はショパンの調べ」の大ヒットを放ち、ほどなくいしだあゆみと同様、「イヴ・サンローラン リブ・ゴーシュ」の顧客となり、女が女に憧れる時代のミューズとなる。

「芸能界」というのはもはや死語だが、ほんの数十年前まで手の届かない世界があり、いしだあゆみから小林麻美への流れのように、そこには連綿たる「系譜」というものがあった。この世界のアイコンだったいしだあゆみのセンスたるや極上で、愛車はバンプラこと、英国のヴァンデン・プラ・プリンセス。ボディーはサンドベージュで4ドアだった。

(文・延江 浩)

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