3度目の最下位に沈んだ王貞治監督時代の96年は、5月9日の近鉄戦の試合後、敗戦に不満を爆発させた約200人のファンがチームのバスを取り囲み、フロントガラスに生卵をぶつける暴動も起きた。

 だが、Bクラスに慣れた選手たちは、負けても悔しがることなく、試合後のロッカーで「どこへ遊びに行く?」と言い合っていた。

 常勝軍団・西武でひたすら勝利を目指してきた工藤は、チームのたるみきった雰囲気に我慢がならず、ある試合で失点につながる落球をした外野手が笑いながらベンチに戻ってくると、「お前、エラーしたのになにニコニコ笑って帰ってきとんじゃ!」(2024年9月18日付スポーツニッポン「我が道」)と強く叱責した。

 初めは工藤を煙たがった選手たちも、工藤を尊敬し、真剣に野球に向き合う藤井将雄らに感化され、次第に「チームを強くしたい」と意識が変わっていく。

 そして、10年目の98年、オリックスと同率の3位で南海時代も含めて21年ぶりのAクラス入りをはたすと、翌99年は悲願の日本一に。

 ここから現在のソフトバンクへと続く黄金時代が幕を開けた。

 投、打ともに好選手を擁しながら、優勝戦線に1度も絡むことなく、“万年Bクラス”だったのが、昭和50年代(1975~84)前後の大洋(78年から横浜大洋)だ。

 この時期の投手には、平松政次、遠藤一彦、斉藤明夫と、球界のレジェンドが3人もいた。

 野手陣も松原誠、田代富雄、長崎慶一(啓二)、高木嘉一(由一)の強打者に、俊足の高木豊、屋鋪要、守備の名手・山下大輔、助っ人もボイヤー、シピン、ミヤーン、レオンと面子が揃っていた。

 エース・遠藤は83、84年に2年連続リーグ最多勝に輝くなど、6年連続二桁勝利を記録。遠藤が先発した試合では、実況アナも「遠藤が投げる日のホエールズは、別のチームに変わります」と評するほどだった。

 だが、それほどのポテンシャルを持ちながら、昭和50年代の10年間は、2位と3位が1度ずつあっただけで、それ以外の8年間は、最下位4度を含むBクラスと低迷した。

次のページ
ポテンシャルはある大洋が“勝てなかった”理由は?