中国語に存在しない漢字の言葉もたくさんあった。「名前」「物語」「言葉」などである。意味は何となく推測できるが、それにしても「名(ミン)」と「前(チェン)」がどう関係しているのかが分からない。何故「前」なのか。「後」じゃ駄目なのか。「神の前で誓う」みたいに「名に懸けて誓う」という意味合いがあるから「前」なのだろうか、それほど日本では「名前」というのは重みのある大事なものなのか、などと想像した。「物語(ウーユー)」の字面を見ると、「物が語る」、つまり「万物が囁(ささや)いている」という深遠なイメージが呼び起こされるし、「言葉(イェンイェー)」に関しては「言語を葉っぱに喩(たと)えていて素敵だ」という感想を抱いた。日本語ができなかった当時の私から見れば、これらの言葉はどれもが詩的で、不思議で、異国情緒に満ちていた。それ故に、まだ仮名文字が一つも読めないにもかかわらず、日本語という言語には既にぼんやりとした親しみと憧れを覚えていた。
漢字という四千年の歴史を持ち、東アジアで広く使われていた文字が、私と日本語を繫(つな)いでくれたのだ。
日本語をすっかりものにしてしまった今となっては、日本語の文章はもう暗号には見えない。「赤」や「青」は文語でも何でもないただの日常語になったし、火曜日や水曜日を口にする時にいちいち天体や陰陽五行を想起したりしない。「探偵」「段階」「制限」「紹介」「言語」など中国語とはあべこべの言葉も何の違和感もなく使っている。「召し上がる」は召喚とは無関係だし、「や」や「ゆ」は火や魚ではなく、意味を持たないただの表音文字であることも分かっている。
それが成長というものだろう。様々な経験をし、様々な知識を身につけることで私たちは大人になっていく。より俯ふ瞰かん的で、大局的な視点で世界を眺めることができるようになる。それはとても素敵なことだし、日本語をマスターしたことを後悔することは決してない。
それでも私は時々、子供時代に見えていた世界を懐かしく思い出す。あの世界では曜日ごとに輝く星が異なり、物語の中では万物が囁き、小さい魚が催眠術をかけるのだ。
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