「覚悟」の前に「弱さ」を認めること
「覚悟」のような、強固そうな響きがあれど、中身はあいまいなことばで過去を振り返った気になる場面こそ、本筋から目を逸らしているのではないか。
そう思ってみると、皮肉なもので、「覚悟」論を振りかざすときほど、揺らぐ情動、合理的な説明のつかなさ、概して「弱さ」「怖れ」のようなものから逃げ惑う様相が目に浮かぶ。
線虫がん検査の話で言えば、新しい検査結果のほうを信じるという選択に際して、何を得ようとし、また何から逃げようとしていたのか?
これは問題を「覚悟」論で片付けようとするより、振り返るに値する問いであろう。
私たちがわかっていることなんていうのは、ごくわずかだ。おおよそはっきりしているのは、いろいろな部分に、いろいろな局面で、「弱さ」を抱えているということくらいだろう。
相手の意志や権利を汲めない弱さ。ゴリ押しして、声をあげたら黙らせようとしたくなる弱さ。再三の再検査要請をなかったことにしてしまう弱さ。それを認めず、新しい検査の精度に問題を還元しようとする弱さ。
いいも悪いもなく、私たちはことごとく弱い。
でも、その弱さを認めざるを得なくなった地点こそが、あなたの・私の人生における岐路である。そしてそこが、「自分を生きる」始点でもある。
弱い自分を生き切るには、周囲に感謝し、生き抜くのではなく、生き合うには?
考えない日はない。
釈迦じゃあるまいし。覚(さと)り、悟るなんて、なんぼのもんじゃい、ということだ。