
線虫と覚悟
こんな角度からも検討してみたい。唐突だが、線虫がん検査の話をする。
というのは、これを執筆している最中、「線虫でがんがわかる」とうたう某がんスクリーニング検査を信じたために、大腸がんの発見が遅れた人の記事が話題になっていた。
この線虫がん検査。医療者の中では端から曰く付きだったらしい。「高リスク」と診断された人から実際にがんが見つかることは、1%に満たないというデータがすでにある。逆を言えば、「低リスク」と言われた人の中からがんが見つかることも、この記事のように、そりゃあるでしょうねぇ、と。いわゆる偽陰性だ。
線虫がん検査の信頼性についてこれ以上語らないが、ここで着目したいのは、次の点だ。
記事によると、その人は、線虫を使った新しいスクリーニング検査を信じるがあまり、便潜血が続き、医師から大腸内視鏡検査を勧められていたにもかかわらず、断りつづけたというのだ。
初作に著したとおり、スピリチュアル整体師にはまってステージⅢCまで進行乳がんに気づかなかった私にとっては、難なくわかる話だ。信じたいものを信じたのだろう。
ここから何が言いたいかと言うと、結果的に危うき選択も、そのときそのときは、「覚悟」して選んでいるのだと思う。
そうした決断をあとから「信じられない」「そんな甘えたことを」などと言い、「覚悟」を指摘することは容易い。だって、後付けだから。そんなふうに、相手の過去の状況判断を「覚悟」の問題にして指摘することは、何かを解決するのだろうか。指摘する側はスカッとするかもしれないが、それで片付く問題、救われる個人はいかほどいるのか。
むしろ、「覚悟」ということばであとから指摘、説明したくなる事象というのは、事の本質を捉えきれていないときなのではないか、と考える。
本当に過去から学びを得ようと振り返るのなら、「覚悟」の問題にしないほうがよほど、現実的なリフレクションになるのではないかと思えるのだ。