だからと言ってこれからも「格差」でいいのか?
分断ではなく、連帯(協働、共生……なんでもいいのだが)のために、自己や他者のことをより「わかる」ことは不可欠だ。自著『格差の"格"ってなんですか?――無自覚な能力主義と特権性』の通奏低音として流れるテーマでもある。
ただし、無自覚に「分ける」ことからはじめていないか?
もっと薄気味悪いのは、「格」のような、そもそも優劣・序列づいた人間観を前提にして、「分け」、「わかった」気になっていないか?
これは問うても問いすぎることはないだろう。
さらに、これからの包摂への道のりの進展を切望するならば、「〇〇格差」論を量産する前に、立ち止まるべきときが訪れている気がしてならない。
自戒を込めてだが、研究したり、立法や行政などに今関わったりしている者は、食うに困らない、いわば生存権を脅かされていない者であることは、疑いようのない事実である。そのうえで、生存権を脅かされた他者のために知恵を絞ってきたのは確かだが、その方法がいつまでも、〝「格」の違いがある!!〟という問題提起でいいのかどうなのかは、振り返り、必要があれば打ち出し方を変えていくべきなのではないだろうか。
「格差」を問題に設定すると、すんなりとそれをひっくり返したかの問題解決策が見えてくる。「格差をなくす」という方針だ。
そのために、お金がなくて塾に行けないなら無料塾を開きましょう、「体験格差」が問題なら、夏休みの無料イベントを開きましょう─―これらも大変結構なのだが、そもそも「格」の違いなのか? その差分を埋めれば、問題解決なのか? そのくらい根っこをたどっておくべきではないか? という提案だ。
センセーショナルな問題提起に躍起になるがあまり、塾に行って学歴を手に入れないと満足に生きられない社会を所与のものにしていないか。非日常の商業的な経験(テーマパークに行くことや旅行)が育むとされる豊かな人間性とは一体何か。これらは問い尽くされているだろうか。
「格差をなくす」以前に、「格差」とは何か、いま一度、立ち返りたい。
格差と呼んだ瞬間に、経済格差で言えば、お金があったほうがいいに決まっていることになるし、最近言われる体験格差も、(お金に糸目をつけず)いろんな体験をさせてあげていることがいいに決まっていることになる。
しかし、本当にそうなのか?
いいに決まっていると思われてきたことのメッキもだいぶ剝がれた頃ではないだろうか。

