階級と無縁と思われた日本社会の盲点

 私の指導教官だった苅谷剛彦(かりやたけひこ)氏が『大衆教育社会のゆくえ――学歴主義と平等神話の戦後史』で、須すべからく公教育が発展した日本において、機会の平等が、結果の不平等を覆い隠したことが、教育格差の再生産を招いていることを指摘したのは、1995年のことだ。

 その後、橘木俊詔(たちばなきとしあき)氏が『日本の経済格差――所得と資産から考える――』で高度経済成長期には「一億総中流」ということばで描写された日本社会が、バブル崩壊後の経済不況により、所得格差が拡大していることを指摘した。

 さらに後に、佐藤俊樹(さとうとしき)氏の『不平等社会日本――さよなら総中流』も、経済的不平等のみならず、教育や雇用、地域間の不平等に焦点を当て、社会階層再生産のメカニズムを実証した。

 要するに、経済格差の話は、社会経済システムに明るい経済学者ないしは、社会学者たちによって、実証的に、かつセンセーショナルな形で問題提起がなされてきた。

 格差研究のメインクエスチョンについて、平たく言うと、限りある資源の「分け合い」において、優位な人と/不利な状況の人とは、何が違うのか? ということだ。至極単純なわりに、あえてことばにするとけっこうエグいのだが。

 この問いを、その人の学歴や、はたまた育った家庭の文化資本、親の世帯年収など……で「分け」て、その差分を生じさせるメカニズムを後追いしようとするのが、格差研究というわけだ。「年収」を被説明変数とし学歴や親の世帯所得、文化資本を探る質問項目などを説明変数として配し、重回帰分析(複数の説明変数が被説明変数にどのくらい影響を与えているかを分析する統計手法のこと)するといった具合だ。

 言うまでもなく、社会に抗(あらが)い難き、「分け合い」の差があるのなら、そのメカニズムの解明は最重要課題の一つだ。こと、今の生活に余裕がある人/余裕なく、生きることそのものが脅かされた状態にある人との差が往々にして、本人の努力の問題とされてきた背景がある社会においては特に。

 経済的に困窮して大変、と言っても、それは正直言って「自業自得」、「自己責任」なのではないか。逆に今余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)の人は、やはり頑張ったご褒美なのではないか。――今となっては稚拙な響きだが、そう社会が信じて疑っていなかった時代からしたら、この指摘を「格」の違いと銘打って提示することは、不可避の流れだったのかもしれない。

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