日高中津から88年ドラフト3位で西武に入団。硬式ではNPB史上初の分校出身選手として話題になった。

 当初は不動の正捕手・伊東勤とポジションが重なり、出番に恵まれなかったが、91年に打力を生かして外野手にコンバートされると、イースタンで本塁打王、打点王の二冠に輝き、93年に1軍定着。初めて規定打席に到達した96年には、自己最多の28本塁打を記録し、和製大砲として存在をアピールした。

 そして翌97年、清原が巨人FA移籍すると、東尾修監督は後継4番に垣内を指名した。

「田舎の子だから、4番のプレッシャーに耐えられるかだな」と一抹の不安を抱いた東尾監督だったが、不幸にもその予感は的中してしまう。

 母校のセンバツ初出場、キャンプ中に第2子の長男誕生と相次ぐ慶事に励まされ、闘志も新たに9年目のシーズンに臨んだ垣内だったが、キャンプ終盤に持病の腰痛が悪化。開幕後も4月9日のオリックス戦で左膝を痛めるなど、5月22日まで打率.190、1本塁打と低迷し、2軍へ。7月に再昇格後もケガは完治せず、チームが優勝争いを演じている9月14日に治療のため渡米、無念の戦線離脱となった。

 その後、99年から3年連続二桁本塁打と復活の兆しを見せたものの、2002年以降は出場機会が減り、ロッテ移籍4年目の06年を最後に引退した。

 故郷・和歌山の名産にちなんで“ミカンの大器”とも呼ばれた男は、1軍で110本塁打、2軍で109本塁打と、NPBでは唯一1、2軍の両方で通算100本塁打以上という珍記録をつくったことでも知られる。

 25歳までに通算101本塁打を記録しながら、その後の9年間で30本塁打と竜頭蛇尾に終わったのが、吉村裕基だ。

 02年のドラフト5巡目で横浜入りした高校通算43本塁打のスラッガーは、3年目まで1軍出場通算16試合と伸び悩むも、4年目に「今年はやらなきゃ」と覚悟を決めて一塁から外野手に転向し、前年秋から守備練習に取り組んできた努力が報われる。

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吉村が思うような結果を出せなくなった原因は?