横浜時代の吉村裕基
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 高卒からたたき上げて和製大砲に成長した選手といえば、現役では巨人岡本和真ヤクルト村上宗隆らが代表格だが、かつてはキャリアの早い時期に主砲として頭角を現しながら、その後、伸び悩んだ未完の大器も多く存在した。

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 その一人が、1998年に日本ハムの4番を任され、シーズン20本塁打を記録した西浦克拓だ。

 ドラフト5位で入団した西浦は、5年目の97年にイースタンで本塁打王を獲得。同年9月に1軍初安打と1軍初本塁打を記録するなど、シーズン終盤に4本塁打を固め打ちして飛躍のきっかけを掴む。契約更改で年俸が倍増すると、「レギュラーを狙いたいですね。落合(博満)さんには潰れてほしいというのが本音です」の大胆発言も飛び出した。

 翌98年は7月10日までに14本塁打を放ち、翌11日のロッテ戦から落合やブルックスを押しのけて、“ビッグバン打線”の4番に座った。

 だが、球宴時に2位・西武に8ゲーム差をつけて独走するチームにあって、チーム打撃を意識するあまり、しだいにタイミングが合わなくなり、前半戦の17本塁打に対し、後半戦は3本塁打と急失速。西武に逆転Vを許した。

 翌99年も開幕から2試合4番を務めたが、6打数無安打と結果を出せず、シーズン2本塁打とすっかり調子を崩してしまう。

 もともと西浦は、打つだけではなく、走塁や守備でもチームに貢献できる万能型の選手を目指していた。実際、98年にも18盗塁を成功させている。だが、首脳陣は大砲としての働きを求めていた。

「首脳陣の方から『打てない西浦は要らない』と言われてしまった。だから腹筋や股関節や内転筋を痛めても無理してバットを振ったこともあった。故障箇所は治っても、バッティングがスムーズにいかなくなった」(「週刊現代」2016年12月24日号)。

 その後はかつての輝きを取り戻せないまま、2005年限りで現役を引退した。

 清原和博の後継4番の期待に応えられなかったのが、垣内哲也だ。

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清原の後継候補もケガに泣かされ“ミカンの大器”に…