でもそんな浅い思惑通りに、手のひらでグビグビできるわけもなく。流れ出るビールは、腕をつたい、セーターの袖も床もびしょびしょに。そんなとき周囲の人の悲鳴を聞いて、野次馬根性で何が起きたのか見に来たのが、妻だった。見れば悲鳴の元は我が夫で、生ビールまみれであたふたしてるんですけど。

 しかも妻を見つけて、「○○、ジョッキジョッキ! 持ってきて! 頼む! お願い!」と妻の名前を叫んでる。ところが妻は知らない人のフリをして、ビールに滑らないようにつま先歩きでスルー。だって、カッコ悪いんだもん。あ、実を言うと、妻は私だ。

■誰だよ、佐藤先生って

 ついでに言うと、ライター人生二十数年。仕事中のピンチも山ほどあった。例えばまだ40代のピチピチライターだった頃のことだ。とある高名な大学教授のもとに取材に行き、インタビューをレコーダーに録音して帰ってきた。

 後日、レコーダーの文字起こしをしていて、途中から青ざめた。仮に、取材相手は田中先生だとして、相手の名前を質問などにはさむのは、ライターの定番ワザ。最初の頃こそ「田中先生は……」「田中先生がおっしゃっていたように……」と、ちゃんと正しい名前で読んでいた40代ライターだが、開始20分程度で何をどう間違ったのか、田中先生が「佐藤先生」に変化。

「佐藤先生のご研究が興味深くて……」「さすが佐藤先生は発想が違いますね」。そこから1時間程度、田中先生をずっと佐藤先生と呼んだまま取材は終了していた。誰だよ、佐藤先生って。

 運の悪いことに同行していたカメラマンも名刺交換をしなかったため、ライターの呼び方を手がかりに「佐藤先生、今度は目線もらっていいですか?」などと、名前の間違いが伝染する始末。そして何より感心したのは、佐藤……じゃなかった、田中先生の懐の深さだ。

 田中先生と呼んだときも、佐藤先生と呼んだときも、声のトーンひとつ変えずにやさしく真摯に対応してくれるなんて、さすが高名な教授。あれから10年以上。ちっとも反省せずに同じような間違いをその後も数回犯し、一方自分の名前の漢字を間違えられたときは、厳重に注意する。田中先生、小さい私をお許しください。

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