さらに、「ご主人は、病名を教えろとあなたに詰め寄りましたか?」と尋ねると、女性は「いいえ」と答えました。
「全部、わかっていたんですよ。ご主人は、あなたが病名を伝えられない気持ちもすべてわかって、亡くなったに違いないと思います」
私がそう言うと、女性は堰を切ったように泣き始めました。
面会していて、相手が突然泣き出すことは時々あります。しかし、場所は喫茶店です。目の前の女性を泣かせ、私は大いにバツの悪い思いをしたものです。
女性はきっと、誰かから「ご主人は知っていたんですよ」と言ってほしかったのでしょう。このように、第三者から「あなたは間違っていなかった」と言ってもらうだけで救われることもあるのです。
亡くなった人に対して後悔が残るのは、当たり前のことです。もしそれが、突然の別れだったとしたらなおさらです。
また、「後悔しないように」と懸命に介護や看病をしたとしても、必ずなんらかの悔いは残ります。それを打ち消そうとする必要はありません。その後悔を抱えたまま生きればいいと私は思うのです。
するとそのうち、その後悔の中に、意味を発見するときが来ます。
たとえば、身近な人が家族の看取りを迎えたときに、自分の体験からアドバイスして役に立てれば、それもひとつの「意味」です。そのとき、「ありがとう」と感謝されれば、「よかった」と素直に思えるでしょう。
近親者を亡くして後悔している人に、「私も同じだったよ」と声をかけて慰めることができれば、それもまた同じです。ただし、「そんな日が来るかもしれない」程度の話です。
後悔は必ず残る。それを否定しようと思っても無理である。そう腹を据える。そして、その後悔をどう取り扱っていくかを考える。
この世にいない人に対する後悔やせつなさを抱いたまま生きる。私は、これがもっとも妥当な後悔の「取り扱い方」だと思っています。
悲しみたいだけ悲しめば、ふと笑える瞬間が来る
あるとき、若い娘さんを亡くした母親が訪ねてきました。