「エイトさんに初めて会ったのは、どこだったっけ。熱心な人だな、と。そして、まともでさわやか。カルト問題を追及する仲間の中に入ってくれると、毒が薄まるようだった(笑)」

 同年、藤倉はニュースサイト「やや日刊カルト新聞」を創刊。鈴木は副代表として参画した(現・主筆)。「ライター」と名乗り始めたのも、この頃だという。

 藤倉の信条は「カルト問題を堅くまじめな調子で論じても、幅広い人々には届かない。皮肉や風刺、面白おかしい調子が大切だ」。鈴木は一緒になって、紙刷り版の「やや日刊カルト新聞」を創価大学の正門前で配ってみたり、カルト団体のイベントに出向き、1人が受付でもめている間にもう1人がするりと中に入ってみたり。「おかしいものはおかしい」という信念で取材を続けた。ライター業での収入は微々たるものだったが、鈴木は、

「今後の自分の人生で何かひとつはじけるとしたら、ライターだな」

 と考え、自由な時間を確保するために、勤めていたビル管理会社から独立。個人で不動産業をしながら、言論活動に軸足を置いた生活を始めた。家族がいる中、向こう見ずな行動にも映るが、幼い頃から、母親に「あなたは大器晩成型」だと言われて育ち、「人生のピークをどこに持っていくか」をずっと考えていたという鈴木にとっては、ごく自然な決断だったのかもしれない。

 一方で、外圧は強くなりつつあった。11年には、教団広報局から「要注意人物」として顔写真入りの“手配書”が作成され、全国の教団系施設に貼り出された。教団関係者から面と向かって「拉致ってやろうか」と言われたり、自宅の周辺を妙な男たちがうろついたりすることも増えた。怪文書をまかれたこともある。だが、

「不思議と怖いという感覚はなかった。藤倉さんのせいですよ。いや、おかげかな(笑)」(鈴木)

(文中敬称略)

(文・古田真梨子)

※記事の続きは4月17日号でご覧いただけます

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