多くの負傷者が運び込まれてきていたナセル病院の外観=2023年11月20日撮影(写真 国境なき医師団提供)

患者の多くは女性や子ども

 けがをして運び込まれてくる患者の多くは女性や子どもだった。実際、ナセル病院では戦闘が始まった10月7日からおよそ2カ月の間に5166人の負傷者と1468人の到着時死亡の患者を受け入れたけれども、亡くなった人の7割が女性と子どもだった。助けても助けても追いつくはずもない。たった一つの空爆で新しい重傷の患者さんが容赦なくどっと来続ける。そんな空爆は一日に何回も起こっている。命を繋ぐことができた患者さんはそこを乗り越えただけでは苦しみは終わらない。自分たちができる人道援助はあまりにも小さく感じた。

 2009年に国境なき医師団に登録してさまざまな国で活動したが、これまで自分はどんな状況でも淡々と医療活動にあたることが出来る「精神力の強い」方だと自負していた。

 例えば、2014年の南スーダンの派遣の時。出身の米国と違って救えない命、出来ない治療の多さから途中から精神的にダメージを受けてしまっていた小児科医がいた。任期より早く米国に帰ってしまった。今でも彼女とつながっているがあれ以降、彼女は海外派遣には行っていない。彼女は患者さんが一人でも亡くなるとすごく悲しんでしまう、自分の患者さんに愛情深い小児科医だった。同じように初めての派遣のフランス人の一般内科医もかなり参っていた。私は初めてのナイジェリアへの海外派遣の時に先輩日本人外科医に「鈍感力」が大事と言われそれを座右の銘にしてきた。私はいつも淡々と自分の仕事は難なくこなせていた。精神的、感情的に不安定になることは一度もなかった。でもこのガザだけは違った。自分でも意外だ。

 それに気づいたのはガザ滞在中に初めて日本のメディアの取材を受けていた時。普通に話しているうちに急に涙が溢れ出てきて自分でも驚いた。その時、周りに近所の子どもたちが居て笑顔でじゃれあっていた最中だったので不思議がられた。帰国直後の記者会見や、ついこの間も講演の最中に急に涙があふれてきたことがあった。ここまで自分が弱ってしまったのは初めてだ。

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中嶋優子(なかじま・ゆうこ)

東京都出身。東京都立国際高校、札幌医科大学卒業。日本と米国の医師免許を持つ。日本で麻酔科医として勤務の後2010年に渡米、救急医療の研修を開始。2014年に米国救急専門医取得、2017年には日本人として初めて米国プレホスピタル・災害医療専門医を取得。国境なき医師団には2009年に登録。2010年に初めての海外派遣でナイジェリアで活動し、その後もパキスタン、シリア、南スーダン、イエメン、シリア、イラクで活動。2023年11~12月にかけてパレスチナ自治区ガザ地区で活動した。2017年から米アトランタ・エモリー大学救急部の助教授を務め、24年9月からは準教授職に。

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