ガザ地区南部のハンユニスで、イスラエルの攻撃で負傷したパレスチナ人の子どもたちがナセル病院に運び込まれた=2023年11月18日(写真 ロイター/アフロ)
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 昨年10月7日、イスラム組織ハマスによる攻撃への報復として、イスラエルによるパレスチナ・ガザ地区への攻撃が始まって1年。いまも攻撃は続き、これまでに4万人を超える犠牲者が出ている。さらに、食糧不足や衛生面の悪化など人びとの生活状況は深刻だ。昨年10月の攻撃後に届いた派遣要請に応じ、11~12月にガザに入った国境なき医師団(MSF)日本の会長で救急医・麻酔科医の中嶋優子さんは、帰任後も取材や講演等で現地の状況を証言し、停戦を訴え続けている。当時の日記をもとに、全10回の連載で現地の状況を伝える。

【実際の写真】熱傷患者に麻酔をかけ包帯交換に臨む中嶋優子医師

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 ガザ南部の最大都市ハンユニスのナセル病院でチームは働き始めた。最初の数日間は手術棟でオペ室に入り手術麻酔を担当していた。この頃はイスラエル軍の激しい空爆によって北部の病院が機能しなくなり、そこで働いていた医師たちが南部へと避難し、ナセル病院にボランティアに来始めていた。麻酔科医も北部のシファ病院からナセル病院の手術室スタッフに次々と合流していた。麻酔科医の人数は足りていそうだったので私は救急救命室に行き始めた。この日、初めて「mass casualty(多数の死傷者)」に遭遇した。

ナセル病院の手術室、熱傷患者に麻酔をかけ包帯交換に臨む中嶋優子医師=2024年11月17日(写真 国境なき医師団提供)

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《2023年11月18日の日記から》

 今日はきつかった…(略)一日ずっと何も飲まず食わずで疲れた。

(略)

 空爆によるマスカジュアリティで3回の患者さんの波が来た。

(※マスカジュアリティ:いっぺんにたくさんの患者さんが医療側の対応能力以上に押し寄せること)

 ひどい火傷、焦げた臭い、まだ温かいコンクリだか砂利の破片だかをつけてきてる人、心肺停止状態の子ども、1人の女の子は右腕がもげていた。ひどい裂創に粉砕骨折、顔も裂創があったり、火傷だらけ。

 2回目のair strike(空爆)で運ばれてきて挿管された子の呼吸アシストをしてる時にどっと3回目の波が押し寄せてすごい地獄絵図だった。カオスの中、なんとか子どもをICUに送り届けた。

(中略)

 かなりいろんな血とか唾液とかいろいろ浴びて汗もかいたので2日連続でシャワー浴びちゃった。

 デブリーフィングした(※デブリーフィング:振り返りミーティング)。自分はなんとなく大丈夫なのかなーと思ってたら、話している時なんか突然泣いてしまった。無意識のダメージ? よくわからない。

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 救急では、最も重傷の患者がくる「蘇生室」で働いた。部屋のスペースはそれほど大きくなくて、ベッドが六つ。いつも患者さんは10人ぐらいいて、mass casualtyのときはさらにどっと増える。医療者側も統制がとれていなくて、例えば外科医が自分ができる手技をやってすぐに次に移り、整形外科医は患部のシーネ固定をして次に移る(いなくなる)。何もかもがカオスだった。

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手術の同意をとろうにも家族がいない