「和久傳」代表取締役社長、桑村祐子。京都にある料亭「和久傳」。2代目の女将・桑村祐子は母の跡を継ぎ、母とはまた違う目線で和久傳を作り上げてきた。「室町和久傳」では新しく料理の名物を誕生させた。おもたせのお菓子の販路を開拓し、料理人の教育・独立制度を作った。「和久傳ノ森」も力を入れている。工房でありながら、森を作る。純度の高い気持ちで向き合うからこそ、新しい価値が生まれる。
* * *
ゴールデンウィークが明けたばかりで青楓(あおかえで)が勢いを増す季節の京都市東山区。料亭「高台寺和久傳」を訪ねると、女将の桑村祐子(くわむらゆうこ・60)が紬(つむぎ)の着物に身を包んで迎えてくれた。柔らかな照明の中に、白い顔がほんのりと浮かぶようだった。
店内はすみずみまで掃き清められていた。庭木の葉は一枚ずつ拭かれ、苔(こけ)に散った葉や塵(ちり)はピンセットで取り除かれる。客室は一室ごとに趣向が異なり、どこも桑村が選んだ第一級の美術品や花で彩られている。撮影の行われた囲炉裏(いろり)のある部屋の床の間では、川合玉堂の燕(つばめ)の掛け軸と壺(つぼ)に生けられた白い大山蓮華(れんげ)が好対照を成していた。
「和久傳」はもともと京都府北部にあった峰山町(現・京丹後市)の料理旅館だった。丹後ちりめんの全盛期には町を羽ぶりの良い商人たちが行き交い、「和久傳」に泊まって新鮮な丹後の料理に舌鼓を打った。だが業界が斜陽になるにつれて経営がむずかしくなっていく。1982年、桑村の両親は高台寺にあった由緒ある日本家屋を譲り受け、思い切って“京都”に出た。桑村は言う。
「当時の京都は飾っておいしい料理が全盛でした。細く切った昆布で籠を作り、ちょっと料理を盛り付けるみたいな。そこに丹後の出の母が新鮮な蟹(かに)を炭で焼いて出す料理を持ち込んだんです。京都の洗練された数寄屋(すきや)造りの建物の中で、野趣ある料理を食べていただくことを個性にしました」