1年目の91年9月12日の大洋戦で初先発した高津は、11安打を許しながらも2失点完投勝利を挙げた。
翌92年は開幕からローテ入りし、5月6日の大洋戦で2失点完投勝利を収めるなど、5月中旬まで無傷の4連勝。だが、6月以降、打ち込まれるようになり、立ち直りのきっかけを掴めないまま、シーズンを終えた。西武との日本シリーズでも出番がなく、2軍の選手と一緒に黒潮リーグに参加していた。
ところが、チームが日本一を逃したことが、野球人生の大きな転機となるのだから、世の中何が幸いするかわからない。西武のストッパー・潮崎哲也の遅いシンカーにきりきり舞いさせられ、「ウチにも潮崎のような投手がいれば」と考えた野村克也監督は、同じ横手投げの高津に「150キロの腕の振りで、100キロのシンカーを投げられないか?」と難しい注文を出した。
高津は必死で練習を重ねた末、遅いシンカーを磨き上げ、翌93年は新守護神としてリーグ2連覇に貢献。西武との日本シリーズでも胴上げ投手になり、見事前年の雪辱をはたした。
歴代トップの通算1002試合登板と通算407セーブを記録した岩瀬仁紀(中日)も、プロ2年目の00年10月8日の広島戦で、公式戦で唯一の先発のマウンドに立っている(公式戦以外では11年のオールスター第1戦で先発)。これは2年連続二桁勝利がかかっていたため、チーム最多の57試合に登板した“ご褒美”として山田久志コーチに勧められて実現したもの。この試合で、岩瀬は7回を1失点に抑え、勝利投手になった。
ストッパーとして実績を残したあと、現役最終年に初めて先発を経験したのが、西武時代のマイケル(マイケル中村)だ。
メジャー通算31試合に登板した逆輸入右腕は、日本ハム入団2年目の06年に39セーブでタイトルを獲得し、チームの日本一に貢献した。
その後も“ハムの守護神”を務めたが、09年に巨人に移籍してからはリリーフ失敗が目につくようになり、11年オフに戦力外通告を経て3球団目の西武へ。