1923(大正12)年10月20日、報道管制が解禁された日に発行された大阪朝日新聞の号外。記事は、「流言」がどのようなものだったかを伝えている

問題が複合的に交錯「自分は殺される側」

 そして、殺された一行は被差別部落の出身だった。当時、彼らに職業選択の自由はなく、香川には田畑に使える土地も少ないことから小作人にもなれずに行商の職を選んだ。香川で職に就くことができていれば関東に来ることはなく、事件は起きなかっただろうと市川さんは言う。

「こうした問題が複合的に交錯し、事件が起きたと考えています」

 関東大震災では、死者・行方不明者10万5千人以上という国内の災害史上最悪の犠牲を出した。その混乱の中、福田村事件のように何の罪のない日本人や社会主義者、中国人が殺傷された。もっとも殺されたのは朝鮮人だった。

 日本は1910年に韓国を併合し植民地化すると、生活の土台を失った農民たちが朝鮮半島から移り住んだ。一方、朝鮮半島では、植民地支配に抵抗し独立運動が激化していった。それに対し日本は、いつか彼らから復讐されるのではないかという恐怖心を抱いていた。そうした感情が差別意識をつくり出し、朝鮮半島出身者を「不逞鮮人(ふていせんじん)」の差別語で呼び、メディアを通じ日本人の間にも朝鮮半島出身者は「不逞」であるという認識が刷り込まれ、差別意識を強めていった。そうした時に起きたのが、関東大震災だった。

 自警団らによる朝鮮人虐殺が起こり、惨事は関東一円に及んだ。朝鮮人の犠牲者数は約6600人に上るとする調査もある。

 東京都墨田区八広(やひろ)。荒川にかかる木根川橋近くにかけられていた旧四ツ木橋のたもとでも、軍隊まで出動し100人近い朝鮮人が殺されたという。

 その場所に追悼碑を建て、虐殺の歴史を伝える一般社団法人「ほうせんか」理事で、在日韓国人2世の愼民子(シンミンジャ)さん(74)は20代で震災の歴史を知った時、「自分は殺される側の人間だと知った」と語る。何かあれば隣近所が殺しに来る。殺されないためには、隣近所と仲良くし、自分は井戸に毒を入れるようなことはしない人間だとわかってくれる日本人を増やすしかないと思っていた、という。

「それだけ関東大震災は私にとって恐怖でした。何もしてないし武器を持っているわけでもないのに、朝鮮人というだけで殺されたわけですから」

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